トップ / 平城京と平城宮跡

平城京と平城宮跡

近鉄電車で大和西大寺から奈良へ向かうと、車窓の左右に草原が広がり、朱塗りの巨大な建物が見えてきます。ここはかつての日本の首都、平城京の中心・平城宮の跡。電車は今も、1300年前の宮殿の敷地のど真ん中を走っています。

世界遺産古都奈良の文化財(1998年)

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

710年、「あをによし」の都

史実和銅元年(708年)、元明天皇は遷都の詔を出し、和銅3年(710年)、都は藤原京から平城京へ移りました(藤原京の部屋)。都は唐の都・長安にならい、南北に貫く幅約74mの朱雀大路を中心に、碁盤の目のように道を通した都市でした。東西約4.3km、南北約4.8kmの本体に、東側に張り出した「外京」が加わります。

有力説最盛期の人口は10万人前後と推定されています。都の北端中央に置かれたのが、天皇の住まいと国の役所が集まる平城宮(約1km四方+東の張り出し部)です。

710年平城京への遷都
約74年都だった期間(784年の長岡京遷都まで)
約120ha平城宮跡の広さ

都をつくった人々

史実都の造営には、全国から集められた人々が働きました。中でも飛騨国は、税の代わりに大工(匠丁)を毎年都へ送る特別な決まりがあり、「飛騨の匠」として宮殿や寺の建設を支えました。造営の現場から逃げ出す人も多く、逃亡者を捕らえる命令も残っています。

史実平城宮跡と平城京跡からは、膨大な数の木簡(文字を書いた木の札)が出土しています。地方から届いた税の荷札や、役所の伝票、役人の落書きまであり、1300年前の都の暮らしを伝えています。長屋王の邸宅跡から見つかった木簡には、アワビなどの食べ物や、氷室から氷を運ばせた記録もありました。

田んぼに眠った宮殿

史実784年に都が長岡京へ、794年に平安京へ移ると、平城宮の建物は取り壊されたり移築されたりし、跡地はやがて田んぼになりました(唐招提寺の講堂は、平城宮の建物を移したものです。唐招提寺の部屋)。どこに宮殿があったのかもわからなくなっていきます。

史実明治時代、宮殿の位置を調べた建築史家・関野貞の研究に心を動かされたのが、奈良の植木職人棚田嘉十郎でした。棚田は私財を投げうって保存運動を始め、大極殿跡に石標を建て、全国の有力者に支援を訴えました。この運動が実を結び、1922年に平城宮跡は国の史跡に指定されます(のちに特別史跡)。

復原された第一次大極殿
復原された第一次大極殿奈良市佐紀町
朱雀門
朱雀門奈良市二条大路南

宮殿跡を横切る電車

史実平城宮跡の中を東西に横切っているのが、近鉄奈良線です。1914年、まだ宮跡の範囲がはっきりしないうちに大阪電気軌道(近鉄の前身)が線路を通しました。遺跡の保存のために線路を移す計画が長く議論されてきましたが、費用や周辺への影響から、今も電車は宮跡の中を走っています。

史実1998年に朱雀門が、2010年の平城遷都1300年祭に合わせて第一次大極殿が、発掘調査と研究をもとに原寸大で復原されました。大極殿は正面約44m、高さ約27m。天皇の即位式や元日の朝賀など、国の最も大事な儀式が行われた建物です。2022年には大極殿の南の大極門(南門)も復原されています。

ここを見る:遺構展示館と東院庭園

平城宮跡遺構展示館では、発掘されたままの柱の跡や井戸を、屋根の下で見ることができます。宮跡の南東の隅にある東院庭園は、発掘された奈良時代の庭園を復元したもので、曲がりくねった池と築山が、平安時代以降の日本庭園の原型を感じさせます。宮跡は広いので、レンタサイクルが便利です。

「あをによし」と奈良の都

史実『万葉集』に収められた小野老の歌「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」は、九州の大宰府から都を懐かしんで詠まれたものです。「あをによし」は奈良にかかる枕詞で、青と赤に彩られた都の建物を思わせる言葉として親しまれています(語源には諸説あります)。

主な参考資料:国土交通省 国営平城宮跡歴史公園/奈良文化財研究所 平城宮跡資料館/『続日本紀』和銅元年・和銅3年条/奈良市「棚田嘉十郎」関連資料

広告

つながる地域

この話は、ほかの地域の物語とつながっています。