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藤原京

橿原市の田園の中に、建物の柱の位置を示す列が立つ広い草地があります。ここが藤原宮跡。694年、持統天皇は日本で初めて、道を碁盤の目に通した本格的な都をここに築きました。けれどこの都は、わずか16年で捨てられます。

世界遺産飛鳥・藤原の宮都(2026年)

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

天皇が「代替わりごとに引っ越さない」都へ

史実それまでの飛鳥時代、天皇の宮は代替わりのたびに場所を変えるのが普通でした(飛鳥の部屋)。天武天皇は、律令(法律)で国を治める中央集権の国家にふさわしい、恒久的な都を計画します。天武天皇の死後、計画を引き継いだ持統天皇は、694年12月に藤原京へ遷都しました。

史実藤原京の中心・藤原宮は、香具山・畝傍山・耳成山の「大和三山」に囲まれた場所に置かれました。宮の中心には、瓦葺きで礎石の上に柱を立てた大極殿などの建物が並びました。それまで宮殿は掘っ立て柱に板や檜皮の屋根で、瓦葺きの宮殿はここが初めてです。

694年藤原京への遷都
16年都だった期間(710年まで)
約5.3km「大藤原京」説での都の一辺

平城京より広かった?

有力説藤原京の範囲は、かつては東西約2km、南北約3kmほどと考えられていました。ところが1990年代に、その外側からも都の道路の跡が次々と見つかり、都は一辺約5.3kmの正方形で、宮がその中央に置かれていたとする「大藤原京」説が有力になりました。この説によれば、藤原京は平城京や平安京よりも広い、古代最大の都だったことになります。

有力説宮を都の真ん中に置く設計は、中国の古典『周礼』に描かれた理想の都の姿にならったものだと考えられています。宮を北端に置いた唐の長安とは違うかたちでした。

藤原宮跡のコスモスと柱の列
藤原宮跡のコスモスと柱の列橿原市高殿町

なぜ16年で捨てられたのか

史実710年、元明天皇は都を平城京へ移しました(平城京の部屋)。日本の本格的な都は、わずか16年でその役目を終えます。

有力説理由はいくつか考えられています。702年に派遣された遣唐使が、30年あまりぶりに唐の都・長安を見て帰ってきたこと。長安のように宮を北端に置く設計の方が、皇帝(天皇)の権威を示すのにふさわしいと考えられたのではないか、という説です。ほかにも、都の中央の宮が周囲より低い土地にあって排水が悪く、都の汚水が宮に流れ込む衛生上の問題があったという説、藤原不比等ら新しい政治の担い手の思惑があったという説などがあります。

大官大寺と本薬師寺――都の大寺の跡

史実藤原京には、国家の寺である大官大寺や、天武天皇が発願した薬師寺が建てられました。大官大寺の跡からは、九重塔だったと推定される巨大な塔の基壇が見つかっています。薬師寺は平城京へ移り(薬師寺の部屋)、藤原京に残った寺の跡は「本薬師寺跡」と呼ばれ、金堂と東西の塔の礎石が田んぼの中に残っています。いずれも世界遺産の構成資産です。

ここを見る:大和三山に囲まれた宮跡

藤原宮跡は、大極殿の基壇の跡に立つと、東に香具山、北に耳成山、西に畝傍山が見渡せます。『万葉集』には、持統天皇の「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山」をはじめ、この地を詠んだ歌が多く残ります。季節には宮跡の一角がコスモスや菜の花の畑になります。

主な参考資料:奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室/橿原市「藤原宮跡」関連資料/『日本書紀』持統8年12月条/文化庁「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産推薦書

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