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石上神宮と山の辺の道

天理市の杉木立の中に、石上神宮(いそのかみじんぐう)は静かに鎮まっています。古代の豪族・物部氏の神社で、大和朝廷の武器を納めた倉があったとも言われます。この神社に伝わる一本の剣が、4世紀の東アジアの国際関係を解く鍵として、研究者を引きつけ続けてきました。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

物部氏と、神の剣

史実石上神宮は、『古事記』『日本書紀』に名前が出てくる、日本で最も古い神社の一つです。ご祭神の布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は、神武天皇が東征の途中で危機に陥ったときに天から下されたという霊剣・布都御魂剣に宿る神とされます。

史実神社を祀ったのは、軍事を担った豪族・物部氏でした。『日本書紀』には、石上神宮に武器が納められていたことを示す記事があり、朝廷の武器庫の役割を果たしていたと考えられています。物部氏は仏教の受け入れをめぐって蘇我氏と争い、587年に物部守屋が敗れて衰えました。

6本七支刀の左右に出た枝刃の数(本身と合わせて7)
61文字七支刀に金象嵌で刻まれた文字(判読できない字を含む)
約16km山の辺の道(石上神宮〜大神神社付近)

七支刀――枝のある剣

史実石上神宮に伝わる七支刀(しちしとう)(国宝)は、長さ約75cmの鉄の剣で、刀身の左右に3本ずつ、互い違いに枝のような刃が突き出しています。表と裏に金の象嵌で銘文が刻まれていて、明治時代に宮司の菅政友が錆を落として文字を見つけました。

有力説銘文には「泰和四年」の年号があり、多くの研究者は中国・東晋の年号「太和四年」(369年)にあたると考えています。百済の王が倭王のために作らせた、という内容と読まれ、『日本書紀』神功皇后52年条に、百済が「七枝刀」を献上したとある記事と一致するとされます。ただし、文字の一部が読み取れないため、「百済が献上した」のか「百済王が下賜した」のかなど、解釈をめぐって日本と韓国の研究者の間でも議論が続いています。

史実七支刀は、ふだんは公開されていません。

石上神宮の楼門
石上神宮の楼門天理市布留町
石上神宮の参道(山の辺の道が通る)
石上神宮の参道(山の辺の道が通る)天理市布留町

禁足地から出てきた剣

史実石上神宮の拝殿の奥には、「布留社(ふるのやしろ)」と刻まれた剣先状の石の瑞垣に囲まれた「禁足地」があります。かつてはこの地そのものが信仰の対象で、本殿はありませんでした。1874年(明治7年)、大宮司の菅政友が許しを得て禁足地を発掘したところ、剣や勾玉などが出土し、出てきた剣を布都御魂剣として祀るために、1913年(大正2年)に本殿が建てられました。

ここを見る:境内を歩く鶏

石上神宮の境内では、たくさんの鶏が放し飼いにされています。鶏は神の使いとされ、参拝者が奉納したものが増えたと言われます。天然記念物の東天紅などの珍しい品種もいて、木の上で休んでいる姿も見られます。

山の辺の道――日本最古の道

史実石上神宮から南へ、大神神社のあたりを経て桜井市の海柘榴市(つばいち)まで、奈良盆地の東の山すそを縫うように続くのが「山の辺の道」です。『古事記』『日本書紀』には、崇神天皇と景行天皇の陵が「山の辺の道の上(ほとり)」にあると記されていて、記録に名前が残る日本最古の道とされます。

史実石上神宮から大神神社付近までの約16kmが、今はハイキングコースとして整備されています。道沿いには、崇神天皇陵・景行天皇陵とされる巨大な前方後円墳や、柿や蜜柑の畑、小さな寺社が点在し、奈良盆地を見下ろしながら歩くことができます。

主な参考資料:石上神宮公式サイト/天理市観光協会「山の辺の道」/文化庁 国指定文化財等データベース「七支刀」/『日本書紀』神功皇后52年条

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