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法隆寺
斑鳩の里に建つ法隆寺の金堂と五重塔は、現存する世界最古の木造建築群です。けれど「聖徳太子が建てたままの姿なのか」については、明治から昭和まで半世紀近く論争が続きました。決着をつけたのは、境内の地面の下に眠っていたもう一つの寺でした。
世界遺産法隆寺地域の仏教建造物(1993年)
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
607年、太子の寺として
有力説法隆寺の金堂にある薬師如来像の光背には、用明天皇の病気平癒を願って造り始め、推古天皇と聖徳太子が推古15年(607年)に完成させた、という銘文が刻まれています。寺の創建はこの年とされてきました。ただし、銘文そのものが後の時代に刻まれたとみる研究者も多く、607年という年は「寺の伝える創建年」と考えておくのが安全です。
史実1993年、法隆寺は法起寺とともに「法隆寺地域の仏教建造物」として、日本で初めて世界遺産に登録されました(姫路城・屋久島・白神山地と同時)。
「一屋も余すことなし」――燃えたのか、燃えなかったのか
史実『日本書紀』の天智9年(670年)4月30日の条には、「夜半之後に法隆寺に災けり。一屋も余ること無し」とあります。夜中に法隆寺が燃え、一つの建物も残らなかった、という意味です。これが本当なら、今の建物は太子の時代のものではなく、その後に建て直されたことになります。
史実明治20年(1887年)ごろから歴史学者たちが「再建説」を唱えると、建築史家の関野貞らは1905年、建物の様式や使われている物差し(高麗尺)から「建物は飛鳥時代のまま」とする「非再建説」で反論しました。論争は、日本の学界を二分して数十年続きます。
地面の下にあった「若草伽藍」
史実決め手は発掘でした。1939年(昭和14年)、今の西院伽藍の南東で、塔と金堂が南北一直線に並ぶ古い寺の跡が掘り出されます。「若草伽藍」と呼ばれるこの寺跡は、今の伽藍と向きが約20度ずれていました。2004年には、高温で焼けた壁画の破片も若草伽藍の跡から見つかり、火災を裏づけています。太子の時代の寺は一度焼け、少し場所を変えて建て直された――再建説が定説になった瞬間です。
史実年輪で木の伐られた年を調べる研究も進みました。2004年には、金堂や五重塔の部材の多くが650年代末から690年代末に伐られたものだと発表されています。ところがそれより前の2001年、五重塔の心柱は594年に伐られた木だと発表されていて、「なぜ心柱だけ古いのか」という新しい謎が生まれています。
有力説古い材木を転用した、長く貯木していた、といった説がありますが、決着はついていません。
ここを見る:金堂と五重塔の「雲」
屋根を支える組物には、雲の形に彫られた「雲斗(くもと)」「雲肘木(くもひじき)」が使われています。飛鳥様式と呼ばれる、法隆寺とその周辺にしか残らない形です。中門の柱の中ほどが少しふくらんでいるのも見どころです(ギリシャ神殿のエンタシスの影響とする説は、今では否定的にみる研究者が多い)。
1949年1月26日、金堂の火災
史実1949年(昭和24年)1月26日の早朝、解体修理中だった金堂から火が出ました。建物そのものは解体中で上層部が外されていたため助かりましたが、初層の内壁に描かれていた、7世紀末ごろの金堂壁画が焼けて色を失いました。インドのアジャンター石窟の壁画とも比べられた、日本美術の至宝です。
史実この火事をきっかけに、1950年に文化財保護法が生まれ、1955年には1月26日が「文化財防火デー」と定められました。毎年この日、全国の寺社で消防訓練が行われています。


夢殿と、開かれた秘仏
史実東院の八角形のお堂・夢殿は、聖徳太子の住まいだった斑鳩宮の跡に、739年ごろ行信という僧が建てたものです。中の厨子には、太子の等身の像と伝わる救世観音(くせかんのん)が納められています。
有力説この像は長く「開ければたたりがある」とされ、布でぐるぐる巻きにされた秘仏でした。1884年(明治17年)、アメリカ人のフェノロサと岡倉天心らが寺を説き伏せて厨子を開け、500ヤードもの布を解いたと伝えられます。ただしこの話はフェノロサ自身の回想によるもので、それ以前にも開扉があったという指摘もあります。今は春と秋に期間を限って公開されています。
主な参考資料:法隆寺公式サイト/文化庁 文化遺産オンライン「法隆寺地域の仏教建造物」/奈良文化財研究所の年輪年代調査報告/『日本書紀』天智9年条