トップ / 吉野山と南朝
吉野山と南朝
春、吉野山は下から上へと順に桜色に染まっていきます。「一目千本」と言われるこの桜は、誰かが景色のために植えたのではありません。山の神仏への祈りとして、1000年以上にわたって人々が一本ずつ植え続けてきたものです。そしてこの山には、かつてもう一つの朝廷がありました。
世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道(2004年)
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
桜は、祈りとして植えられた
伝承7世紀末、修験道の開祖とされる役行者(役小角)は、吉野から大峯山へと続く山々で修行し、山上ヶ岳で荒々しい姿の仏「蔵王権現」を感得したと伝えられます。役行者はその姿を山桜の木に刻んで祀ったため、桜は蔵王権現の神木とされるようになりました(大峯山の部屋)。
史実以来、蔵王権現への信仰の証として桜の苗木を寄進する「献木」が続けられ、吉野山は桜の山になりました。今は約3万本の桜があり、その多くは野生種のシロヤマザクラです。麓から下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれ、4月上旬から下旬にかけて、下から順に咲き上がっていきます。
金峯山寺蔵王堂――高さ34mの木の堂
史実吉野山の中心にそびえるのが、修験道の総本山・金峯山寺の本堂、蔵王堂(国宝)です。今の建物は豊臣秀吉の寄進で1590年ごろに再建されたもので、高さ34m、奥行き・幅ともに約36m。木造の仏堂として全国屈指の大きさです。
史実堂内には、青黒い蔵王権現の立像3体が祀られています。中央の像は高さ約7.3m、左右の像も6m前後あります。右手を振り上げ、右足を高く上げて怒りの表情を見せる姿です。普段は秘仏で、特別な期間にだけ公開されます。


二つの朝廷――南朝の60年近く
史実1336年、足利尊氏と対立した後醍醐天皇は、京都を脱出して吉野に入り、ここに朝廷を開きました。京都には尊氏が立てた天皇(北朝)がいて、二つの朝廷が並び立つ「南北朝時代」の始まりです。後醍醐天皇は1339年、京都への帰還を願いながら吉野で亡くなりました。
伝承『太平記』は、後醍醐天皇が最期に「玉骨はたとひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」(体は吉野の苔に埋もれても、魂は常に京都の空を望む)と言い残したと記しています。その遺志を受けて、天皇の陵(塔尾陵)は、天皇陵としては珍しく北の京都の方角を向いて造られたと伝えられます。
史実1348年、北朝方の高師直の軍に攻められて吉野の行宮は焼かれ、南朝は賀名生(あのう、今の五條市)などへ拠点を移しながら抵抗を続けました。1392年に南北の朝廷が一つになるまで、60年近くにわたる対立でした。
ここを見る:吉水神社の書院
後醍醐天皇が行宮とした吉水神社(もとは吉水院という僧坊)には、天皇の玉座の間が残ります。1594年には豊臣秀吉が徳川家康や伊達政宗ら約5000人を連れて大花見を催し、その本陣にもなりました。書院の縁側からは、中千本・上千本の桜を一度に見渡せる「一目千本」の眺めが広がります。
義経と静御前の別れ
史実1185年の冬、兄・源頼朝に追われた源義経は、弁慶らとともに吉野山に逃げ込みました。吉野の僧兵にも追われた義経は、雪の中、愛妾の静御前と別れて山を越えていきます。静は捕らえられて鎌倉に送られ、鶴岡八幡宮で頼朝の前で舞を命じられました。
伝承吉水神社には、義経と静が身を隠したと伝わる部屋や、弁慶が力試しに打ち込んだという「弁慶の力釘」など、義経主従ゆかりの品が伝えられています。
主な参考資料:金峯山寺公式サイト/吉野町「吉野山の桜」関連資料/『太平記』/文化庁 文化遺産オンライン「紀伊山地の霊場と参詣道」