トップ / 石舞台古墳

石舞台古墳と飛鳥の古墳

明日香村の丘のふもとに、巨大な石が積み重なってむき出しになっています。石舞台古墳。本来は土に覆われた古墳の石室ですが、いつの頃からか土がはぎ取られ、骨組みだけが残りました。その姿が、飛鳥でもっとも有名な風景になっています。

世界遺産飛鳥・藤原の宮都(2026年)

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

2300トンの石の部屋

史実石舞台古墳の石室は、約30個の花崗岩でできています。総重量は約2300トンと推定され、天井の石のうち最大のものは約77トンとされます。石は約3km離れた多武峰(とうのみね)のふもとから運ばれてきたと考えられています。石室の内部は長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7mで、中に入ることができます。

史実1933年と1935年に京都帝国大学の浜田耕作らが発掘し、一辺約50mの方形の基壇の周りに空堀と外堤がめぐる、巨大な方墳だったことがわかりました。7世紀初めごろの築造と考えられています。

約2300t石室の石の総重量(推定)
約30個石室を組む巨石の数
626年蘇我馬子が亡くなった年

眠っていたのは蘇我馬子か

有力説『日本書紀』は、推古34年(626年)に大臣の蘇我馬子が亡くなり、「桃原墓(ももはらのはか)」に葬られたと記します。明治時代に歴史学者の喜田貞吉がこの桃原墓を石舞台古墳に当てて以来、被葬者は馬子だとする説が有力です。周辺には蘇我氏の邸宅跡と考えられる遺構も見つかっています。ただし、墓誌などの決め手は見つかっていません。

なぜ、土がないのか

有力説石舞台古墳の盛り土は、ほとんどが失われています。石室の中も盗掘され、副葬品はほとんど残っていませんでした。古墳を覆う土が意図的にはぎ取られたのは、645年の乙巳の変で蘇我氏の本家が滅んだあと、権力の象徴だった一族の墓が辱めを受けたからではないか、という説があります(飛鳥の部屋)。長い年月の間に、土が農地などに使われて失われたという見方もあり、真相はわかっていません。

都市伝説「石舞台」という名前は、月夜にキツネが女性に化けて石の上で踊ったから、あるいは旅芸人がこの石を舞台に芸をしたから、と説明されることがあります。ただ、地元で育った考古学者の網干善教は、そんな話は聞いたことがない、近年の創作だろうと述べています。

石舞台古墳
石舞台古墳明日香村島庄
牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳明日香村越

八角形の天皇陵

史実飛鳥の古墳でもう一つ注目されるのが、「八角墳」です。7世紀の半ばから、天皇の墓は八角形に造られるようになりました。八方を治める天皇の権威を表したと考えられています。

史実天武天皇と、その皇后で次の天皇となった持統天皇を一緒に葬った天武・持統天皇陵(野口王墓)は、八角墳で、世界遺産の構成資産の一つです。持統天皇は天皇として初めて火葬された人で、その遺骨は夫の石室に納められました。

史実明日香村越の牽牛子塚(けんごしづか)古墳は、2009〜2010年の発掘で八角墳と確認され、斉明天皇の墓である可能性が高まりました。凝灰岩の巨石をくり抜いた石室は二つの部屋に分かれ、娘の間人皇女と合葬されたという『日本書紀』の記述と合うとされます。2022年には、築造当時の姿に復元・整備されました。

ここを見る:石室の中から見上げる

石舞台古墳の石室には階段で下りて入ることができます。中から天井を見上げると、巨大な天井石が隙間なく組まれていることがわかります。周囲は「国営飛鳥歴史公園 石舞台地区」として芝生の広場になっていて、春は桜、秋は彼岸花と一緒に眺められます。

主な参考資料:明日香村教育委員会/奈良県立橿原考古学研究所/『日本書紀』推古34年条/文化庁「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産推薦書

広告