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高松塚古墳とキトラ古墳

1972年3月、明日香村の小さな円墳の石室から、色鮮やかな女性たちの絵が現れました。高松塚古墳の壁画です。新聞の一面を飾ったこの発見は、日本中に古代史ブームを巻き起こしました。11年後、近くのキトラ古墳では、カメラの先に黒い亀と蛇の絵が映し出されます。

世界遺産飛鳥・藤原の宮都(2026年)

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

1972年3月21日の発見

史実高松塚古墳は、直径約23m、高さ約5mの小さな二段築成の円墳です。地元の人がショウガを貯蔵する穴を掘ったときに切石が見つかったことがきっかけで、奈良県立橿原考古学研究所が発掘を行い、1972年3月21日、石室の壁に描かれた極彩色の壁画が確認されました。

史実壁には、男女の人物群像、青龍・白虎・玄武の四神(朱雀は盗掘の穴で失われたとみられる)、天井には星宿(星座)が描かれていました。中でも、色とりどりの衣装に身を包み、団扇や払子を手にした「西壁女子群像」は「飛鳥美人」と呼ばれ、日本の古代絵画の代表になりました。壁画は1974年に国宝に指定されています。

1972年高松塚古墳の壁画発見
1983年キトラ古墳で玄武の壁画を確認
国内唯一四神がそろった古墳壁画(キトラ古墳)

カビとの闘い、そして石室の解体

史実壁画は発見後、石室を密閉したまま現地で保存されることになりました。ところが2000年代に入ると、石室内でカビや微生物が繁殖し、壁画が黒ずんで劣化していることが明らかになります。対策の遅れや、作業中に壁画を傷つけていたことが公表されていなかった問題は、大きな批判を浴びました。

史実文化庁は2007年、石室を解体して壁画を取り出し、施設で修理するという異例の決断をします。石材は一つずつ取り出され、10年以上にわたる修理が続けられました。現地には、壁画を再現した模写や模型を展示する「高松塚壁画館」があります。

キトラ古墳――カメラで見つかった四神

史実高松塚古墳の南約1.2kmにあるキトラ古墳でも、1983年11月7日、盗掘の穴から差し込んだファイバースコープのカメラで、北壁の玄武が確認されました。その後の調査で、東の青龍、西の白虎、南の朱雀の四神すべてと、獣の頭に人の体をした十二支像が描かれていることがわかります。四神がそろった壁画は、国内で唯一です。

史実天井には、金箔で表した星を朱の線で結んだ天文図が描かれていました。円が同心円状に描かれた本格的な星図で、現存する東アジア最古級のものとされます。描かれた星空がどこで観測されたものかについては、緯度の計算から、日本ではなく中国や朝鮮半島で観測された図を写したという説があります。

伝承「キトラ」という名前の由来には諸説あり、石室をのぞくと亀(玄武)と虎(白虎)が見えたから「亀虎(きとら)」という話も語られます。ただ、古墳の名は壁画が見つかる前から使われていて(白虎が確認されたのは1998年)、地名の「北浦(きたうら)」がなまったとする説などもあります。

高松塚古墳の壁画(西壁女子群像)
高松塚古墳の壁画(西壁女子群像)明日香村平田
「四神の館」の展示室
「四神の館」の展示室明日香村阿部山

ここを見る:四神の館の実物公開

キトラ古墳の壁画は2004〜2010年に取り外されて修理され、古墳のそばの「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」(2016年開館)で保管されています。年に数回、期間を限って実物の壁画が公開されます(事前申し込み制の回が多いので、公式情報の確認を)。地下の展示室では、石室の原寸大模型や天文図の映像を常時見ることができます。

誰が葬られたのか

有力説どちらの古墳も7世紀末から8世紀初めの築造とされ、藤原京の時代にあたります(藤原京の部屋)。被葬者については、天武天皇の皇子たちや、当時の有力な官人の名が挙げられていますが、特定されていません。高松塚古墳からは、男性の歯や骨の一部が見つかっています。

主な参考資料:文化庁「高松塚古墳・キトラ古墳」関連資料/国営飛鳥歴史公園(キトラ古墳壁画体験館 四神の館)/奈良文化財研究所/明日香村教育委員会

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