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纒向遺跡と箸墓古墳

三輪山のふもと、桜井市の田園地帯に、全長約280mの巨大な前方後円墳がこんもりと横たわっています。箸墓古墳。そしてその周りに広がる纒向遺跡は、3世紀に突然現れた日本最大級の集落の跡です。ここは、女王卑弥呼の都・邪馬台国だったのでしょうか。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

3世紀に突然現れた「都市」

史実纒向遺跡は、東西約2km、南北約1.5kmにおよぶ広大な遺跡です。2世紀末から4世紀前半にかけて栄え、それ以前にはほとんど人が住んでいなかった場所に、急に大規模な集落が生まれました。田畑の跡がほとんど見つからず、運河のような大溝や、祭祀の跡が多いことから、農村ではなく、政治や祭祀の中心地だったと考えられています。

史実出土する土器のうち、東海、北陸、山陰、吉備(岡山)、九州など、ほかの地域から持ち込まれたものが15〜30%にものぼります(ふつうの集落では数%)。各地の人々が集まる場所だったことを示しています。

約2000個土坑から出土した桃の種(2010年発表)
約280m箸墓古墳の墳丘長
3世紀纒向遺跡が最も栄えた時期

大型建物と、2000個の桃の種

史実2009年、遺跡の中心部で、3世紀前半の大型建物の跡が見つかりました。東西に軸をそろえて一直線に並ぶ建物群で、中心の建物は南北約19.2m、東西約12.4mと、この時代としては国内最大級です。「卑弥呼の宮殿か」と大きく報道されました。

史実翌2010年には、その近くの穴から約2000個の桃の種が見つかりました。桃は古代中国で不老長寿や魔よけの力を持つ果実とされ、祭祀に使われたと考えられています。のちに種の放射性炭素年代測定が行われ、西暦135〜230年ごろのものとする結果が2018年に報告されています。

箸墓古墳――最初の巨大前方後円墳

史実箸墓古墳は墳丘長約280m、後円部の直径約150m、高さ約30m。それまでの墓とは桁違いの大きさで、のちに全国へ広がる巨大な前方後円墳の、最初の一つとされます。宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓「大市墓」として管理しており、墳丘への立ち入りはできません。

伝承『日本書紀』は、百襲姫が三輪山の神・大物主神の妻となったが、夫は夜にしか来ない。姿を見たいと願うと、翌朝、櫛箱の中に小さな蛇がいた。驚いて叫んだ姫は、恥をかかされた神が山へ帰っていくのを悔い、箸で陰部を突いて亡くなった――と記します。この墓は「昼は人が作り、夜は神が作った」もので、大坂山(今の二上山付近とされる)から墓まで人々が列をなし、石を手から手へ渡して運んだとも書かれています。

箸墓古墳
箸墓古墳桜井市箸中

卑弥呼の墓なのか

有力説中国の歴史書『魏志』倭人伝は、邪馬台国の女王・卑弥呼が248年ごろに亡くなり、「径百余歩」の大きな墓が造られたと記します。箸墓古墳の築造年代について、土器や年代測定から3世紀中ごろとみる研究者は、卑弥呼の墓の可能性を指摘しています。

有力説一方で、築造を3世紀後半から末とみる説もあり、それなら卑弥呼の後を継いだ女王・台与(壹与)の時代にあたります。また、邪馬台国は九州にあったとする「九州説」も根強く、論争は決着していません。宮内庁が管理する陵墓のため本格的な発掘ができないことも、謎が解けない理由の一つです。

ここを見る:纒向から三輪山を望む

JR桜井線(万葉まほろば線)の巻向駅を降りると、すぐそばが大型建物跡(辻地区)で、建物の柱の位置が示されています。そこから東を見ると三輪山がそびえます(三輪山の部屋)。大型建物群は、三輪山の方角を意識して東西に並べられたという見方もあります。

主な参考資料:桜井市纒向学研究センター/奈良県立橿原考古学研究所/宮内庁「大市墓」/『魏志』倭人伝/『日本書紀』崇神紀

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