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元興寺とならまち

格子戸の町家が続く「ならまち」の路地を歩いていると、ふいに小さなお寺が現れます。元興寺です。今は小さな寺ですが、かつては東西約220m、南北約440mの広大な境内を持ち、その跡地に生まれた町がならまちでした。寺の屋根には、1400年前の瓦が今も載っています。

世界遺産古都奈良の文化財(1998年)

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

飛鳥から引っ越してきた寺

史実元興寺の前身は、蘇我馬子が飛鳥に建てた日本最初の本格的な寺院・法興寺(飛鳥寺)です(飛鳥の部屋)。平城京へ都が移ると、718年に寺も平城京の外京に移り、名を「元興寺(がんごうじ)」と改めました。飛鳥の地にも寺は残り、今の飛鳥寺として続いています。

史実奈良時代の元興寺は、東大寺や興福寺と並ぶ大寺で、南都七大寺の一つに数えられました。とくに仏教の学問の中心地として知られました。

718年飛鳥から平城京へ移転
約1400年前屋根に残る飛鳥時代の瓦
約440m奈良時代の境内の南北の長さ(とされる)

屋根の上の、飛鳥時代

史実今の元興寺(極楽坊)の本堂と禅室の屋根を見上げると、ところどころに色の違う、赤みがかった瓦や黒っぽい瓦が混ざっています。これは飛鳥寺から運ばれてきたとされる瓦で、日本最古級の瓦です。丸瓦の片方を細くして重ねていく「行基葺き」という古い葺き方が残っています。

史実本堂(極楽堂)と禅室は鎌倉時代の建物で、ともに国宝。境内は1998年に世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産となりました。

元興寺の屋根の古い瓦
元興寺の屋根の古い瓦奈良市中院町
ならまちの町家
ならまちの町家奈良市中新屋町ほか

大寺の衰え、そして町が生まれる

史実平安時代に都が京都へ移ると、元興寺は次第に衰えていきます。1451年の土一揆で起きた火災で五重塔以外の主な建物を失い、広い境内には民家が建ち始めました。その五重塔も1859年に焼失しています。

史実こうして寺の跡地に生まれた町が「ならまち」です。江戸時代には、晒(さらし)や墨、酒、蚊帳などの商工業でにぎわい、間口が狭く奥行きの長い町家が並びました。今の町名にも「中院町」「芝新屋町」など、寺の時代の名残があります。

史実元興寺は境内が分かれて、今は元興寺(極楽坊)、元興寺(五重塔跡、奈良市芝新屋町)、小塔院跡の三つに分かれています。極楽坊の境内には、庶民が供養のために奉納した石仏・石塔約2500基を並べた「浮図田(ふとでん)」があります。

ここを見る:軒先の赤い「身代わり猿」

ならまちの家々の軒先には、赤い布でできた猿のぬいぐるみが吊るされています。庚申信仰の「身代わり申(さる)」で、家に災いが入るのを猿が代わりに受けてくれるとされます。背中に願いごとを書いて吊るすと叶う、とも言われます。ならまちの中心にある庚申堂がその信仰の拠点です。

「がごぜ」――元興寺の鬼

伝承平安時代の説話集『日本霊異記』には、元興寺の鐘楼に夜な夜な鬼が出て、怪力の童子(のちの道場法師)が鬼の髪をはぎ取って退治した、という話があります。この鬼は「元興寺(がごぜ/がごじ)」と呼ばれ、子どもをおどかす妖怪の名として各地に広まりました。今も元興寺では、鬼の姿の「元興神(がごぜ)」のお守りを授けています(伝説の部屋)。

主な参考資料:元興寺公式サイト/奈良市「ならまち」関連資料/文化庁 国指定文化財等データベース/奈良文化財研究所「元興寺旧境内」調査報告

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