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興福寺と阿修羅像

猿沢池の水面に映る五重塔は、奈良を代表する景色です。この寺は、日本史上もっとも長く権力を握った藤原氏の「家の寺」でした。中世には大和一国を支配するほどの力を持ち、明治にはほとんど廃寺寸前にまで追い込まれた、浮き沈みの激しい寺です。

世界遺産古都奈良の文化財(1998年)

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

山科から飛鳥、そして平城京へ

史実興福寺の始まりは、藤原氏の祖・中臣鎌足の妻・鏡大王が、夫の病気平癒を願って669年に山城国山階(京都市山科区)に建てた山階寺(やましなでら)だとされます。都が飛鳥に移ると寺も移って厩坂寺(うまやさかでら)となり、710年の平城京遷都とともに、鎌足の子・藤原不比等が今の場所に移して「興福寺」と名づけました。

有力説寺が建つのは、平城京の東の端からさらに張り出した「外京」の高台です。平城宮を見下ろす一等地に一族の寺を置いたことに、藤原氏の力が表れていると言われます。

50.1m五重塔の高さ(木造の塔で日本第2位)
1426年今の五重塔が再建された年
2018年中金堂が約300年ぶりに再建

大和国を治めた寺

史実藤原氏の繁栄とともに興福寺も大きくなり、隣の春日大社と一体となって力をふるいました(春日大社の部屋)。平安時代には、春日大社の神木(榊)を担いで京都へ押しかけ、朝廷に要求をのませる「強訴」をたびたび行い、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と恐れられました。

史実鎌倉・室町時代には、幕府は大和国に守護を置かず、興福寺が事実上の守護として国を治めました。こうした体制は戦国時代まで続きます。

阿修羅像――戦いの神が、少年の顔をしている

史実興福寺の国宝館に安置される阿修羅像は、734年、光明皇后が母・橘三千代の一周忌のために造らせた八部衆像の一体です。麻布を漆で何層も貼り固めて形をつくる「脱活乾漆造」で、重さは約15kgしかありません。三つの顔と六本の腕を持ちます。

史実阿修羅は本来、帝釈天と戦い続ける荒ぶる神です。ところがこの像は、眉を寄せた少年のような繊細な表情をしています。2009年に東京国立博物館で開かれた「国宝 阿修羅展」には約94万人が訪れ、九州会場と合わせて160万人を超える記録的な展覧会になりました。

史実1180年の平重衡による南都焼き討ちでは、興福寺もほぼ全焼しました。阿修羅像を含む八部衆像が今に伝わったのは、火の中から運び出されたためと考えられています。

興福寺の五重塔
興福寺の五重塔奈良市登大路町
再建された中金堂
再建された中金堂奈良市登大路町

五重塔は売りに出されたのか

史実明治初年の神仏分離と廃仏毀釈で、春日大社と一体だった興福寺は大きな打撃を受けました。僧たちは春日大社の神職になって寺を去り、寺は一時、ほぼ無人になります。築地塀は取り払われ、境内は奈良公園の一部になりました。

伝承このとき五重塔は、わずか250円(25円とする話もある)で売りに出され、買い手は金具だけを取るために塔を焼こうとしたが、延焼を恐れた住民の反対で取りやめになった――という話が語り継がれています。ただし、裏づける確かな記録は見つかっておらず、話の細部は伝え方によってまちまちです。

300年ぶりの中金堂

史実伽藍の中心である中金堂は創建以来7回焼け、1717年の火災のあとは本格的な再建ができないまま、仮の堂で300年を過ごしました。2018年、天平時代の規模で再建された中金堂が落慶し、奈良時代の創建時の姿がよみがえっています。

ここを見る:修理中の五重塔

五重塔は2023年から約120年ぶりの大規模修理に入り、素屋根(修理用の覆い)に包まれています。修理は2031年ごろまでの予定です。見られない期間だからこそ、塔の東にある、室町時代の1415年に再建された東金堂や、八角形の北円堂(現存する興福寺で最古の建物)に目を向けてみてください。

主な参考資料:興福寺公式サイト/文化庁 国指定文化財等データベース/奈良県「なら記紀・万葉」関連資料/『興福寺流記』

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