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十津川村と熊野古道小辺路

奈良県の南端、十津川村は面積672km²。琵琶湖や東京23区よりも広い、日本一大きな村です。その96%が山林で、深い谷の底を十津川が流れます。山に閉ざされたこの村の人々は、古代から幕末まで、都の動乱があるたびに山を下りて駆けつけてきました。

世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道(2004年)

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

日本一広い村

史実十津川村の面積は672.38km²。北方領土の村を除けば、日本で最も広い村です。人口は約3000人で、集落は谷沿いや山の中腹に点在しています。奈良市から車で3時間以上かかり、日本一長い路線バス(大和八木駅〜新宮駅、約170km)が村を縦断しています。

672km²村の面積(琵琶湖より広い)
297m谷瀬の吊り橋の長さ(高さ54m)
約2500人明治の大水害のあと北海道へ移住

谷瀬の吊り橋――住民が出し合った800万円

史実谷瀬(たにぜ)の集落と対岸を結ぶ「谷瀬の吊り橋」は、長さ297m、川面からの高さ54m。生活用の鉄線の吊り橋として日本有数の長さです。1954年、それまで丸木橋しかなく、増水のたびに孤立していた集落の人々が、1戸あたり20万〜30万円を出し合い、総工費800万円のうち大半を自分たちで負担して架けました。当時の大卒初任給が1万円に満たなかった時代のことです。

史実今も橋は住民の生活道路で、観光客は一度に20人まで渡ることができます。足元の板のすき間から谷底が見え、歩くたびに揺れます。

谷瀬の吊り橋
谷瀬の吊り橋十津川村上野地
熊野古道小辺路
熊野古道小辺路十津川村

熊野古道小辺路――高野山から熊野へ

史実熊野三山へ向かう巡礼の道「熊野古道」のうち、真言宗の聖地・高野山と熊野本宮大社を最短で結ぶのが「小辺路(こへち)」です。全長約70km、標高1000mを超える伯母子峠・三浦峠・果無峠の三つの峠を越える、熊野古道の中でも険しい道で、その多くが十津川村を通ります。2004年に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部になりました。

史実果無峠の手前にある果無(はてなし)集落は、石畳の道沿いに民家が並び、「天空の郷」とも呼ばれます。道沿いには、西国三十三所の観音を刻んだ石仏が順に置かれています。熊野古道は世界遺産としては珍しい「道」の遺産で、スペインのサンティアゴ巡礼路とは姉妹道の関係を結んでいます。

十津川郷士――都の危機に駆けつける村

伝承十津川の人々は、672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に味方して以来、朝廷のために戦ってきたと伝えます。

史実山が深く田畑の少ない十津川郷は、豊臣政権や江戸幕府のもとでも年貢を免除される特別な扱いを受けていました。この特権は明治維新まで続きました。

史実南北朝時代には南朝を支え、幕末の1863年には尊王攘夷派の天誅組の挙兵に加わり(のちに離脱)、同じ年には朝廷から京都御所の警備を命じられました。1867年、坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺されたとき、刺客は「十津川郷士」を名乗って取り次ぎを頼んだと伝えられます。十津川郷士の名は、それほど都で知られていたのです。

明治22年の大水害と、北海道の「新十津川」

史実1889年(明治22年)8月、豪雨によって村の各地で山が崩れ、川がせき止められて巨大な湖がいくつもできました。168人が亡くなり、多くの家と田畑が失われます。生活の手段を失った約600戸・約2500人の村人は、新天地を求めて北海道へ移住しました。

史実彼らが開拓したのが、今の北海道樺戸郡新十津川町です。移住者たちは厳しい寒さと原生林に挑み、村を一から築きました。今も二つの町は「母村」「子村」と呼び合い、交流を続けています。2011年の紀伊半島大水害で十津川村が再び大きな被害を受けたときには、新十津川町から多くの支援が届きました。

ここを見る:玉置神社と十津川温泉

村の南部、標高約1000mの玉置山にある玉置神社は、大峯奥駈道の一部として世界遺産に含まれる古社です。樹齢3000年ともいわれる神代杉がそびえます。麓の十津川温泉郷は、2004年に全国で初めて村内のすべての温泉施設で「源泉かけ流し」を宣言しました。

主な参考資料:十津川村公式サイト/十津川村観光協会/新十津川町「新十津川町のあゆみ」/文化庁 文化遺産オンライン「紀伊山地の霊場と参詣道」

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