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唐招提寺と鑑真

唐の揚州で高僧として尊敬を集めていた鑑真は、日本から来た二人の若い僧の願いを受け、海を渡ることを決めました。嵐、密告、遭難。5度失敗し、ようやく日本の土を踏んだのは12年後、66歳のときでした。その鑑真が晩年を過ごしたのが唐招提寺です。

世界遺産古都奈良の文化財(1998年)

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

「正式な僧」をつくれる人を求めて

史実奈良時代の日本では、税や労役を逃れるために勝手に出家する人が後を絶ちませんでした。正式な僧になるには、資格のある10人の僧の前で戒律を授かる「受戒」が必要でしたが、日本にはその儀式を行える僧がそろっていなかったのです。

史実733年、遣唐使に加わった若い僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は、戒律の師を日本へ招く役目を負って唐へ渡りました。10年近く唐で師を探した二人が742年に揚州の大明寺でたどり着いたのが、すでに55歳になっていた鑑真(688〜763年)です。鑑真は弟子たちに「誰か行く者はいないか」と問い、名乗り出る者がいないのを見て、自ら行くと決めたと伝わります。

5回失敗した渡航の回数
12年決意から来日までの年月
754年平城京に到着した年

5度の失敗

史実最初の計画は、渡航を快く思わない弟子の密告で役人に知られ、失敗しました。船を造り直せば嵐に遭い、出国をとがめられて足止めされ、748年の5度目の挑戦では、14日間漂流した末に、はるか南の海南島に流れ着きます。帰る途中で、栄叡は病に倒れて亡くなりました。

有力説度重なる苦労のなかで、鑑真は目を患い、視力を失ったとされます。ただし、来日後の鑑真が書類に署名したとみられる記録もあり、完全に失明していたかどうかについては議論があります。

史実753年、鑑真は遣唐使の帰国船にひそかに乗り込み、6度目でついに薩摩国の秋妻屋浦(今の鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に上陸しました。翌754年に平城京に入り、東大寺大仏殿の前に設けた戒壇で、聖武太上天皇や光明皇太后らに戒を授けています。

唐招提寺の金堂
唐招提寺の金堂奈良市五条町
金堂正面の列柱
金堂正面の列柱奈良市五条町

「唐の招提」――四方から僧が集う寺

史実759年、鑑真は朝廷から与えられた新田部親王の旧宅の地に、戒律を学ぶ道場を開きました。これが唐招提寺です。「招提」は、サンスクリット語で「四方」を意味する言葉を音で写したもので、四方から集まった僧が住み、修行する場所を指します。「唐招提寺」は「唐の僧(鑑真)の招提」という意味です。

史実金堂(国宝)は鑑真の没後、8世紀末に建てられた建物で(部材の年輪調査では781年に伐られた木が見つかっています)、奈良時代に建てられた寺院の金堂として現存する唯一のものです。正面に8本の太い円柱が並ぶ吹き放ちの空間が特徴で、2000〜2009年の「平成の大修理」で解体修理されました。講堂は平城宮の朝集殿を移したもので、平城宮の建物として唯一現存する遺構です。

ここを見る:鑑真和上坐像と御影堂

763年に鑑真が亡くなる直前、弟子たちが師の姿を写して造った乾漆の坐像(国宝)は、日本最古の肖像彫刻とされます。目を閉じた静かな姿は、松尾芭蕉に「若葉して御目の雫ぬぐはばや」と詠ませました。像は御影堂に安置され、毎年6月の開山忌の前後3日間だけ公開されます。2013年からは、ほぼ同じ姿に造られた「御身代わり像」が開山堂で常時公開されています。

中国との縁は続く

史実1980年、鑑真和上坐像は中国へ「里帰り」し、揚州や北京で公開されました。鑑真が来日を決めた揚州の大明寺には、唐招提寺の金堂を手本にした鑑真記念堂が建っています。唐招提寺の境内には、揚州から贈られた瓊花(けいか)の木が植えられ、毎年春に白い花を咲かせます。

主な参考資料:唐招提寺公式サイト/『唐大和上東征伝』(淡海三船)/『続日本紀』天平宝字7年5月条/文化庁 国指定文化財等データベース

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