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聖徳太子と斑鳩の里
法隆寺の東と北に広がる田園は、聖徳太子が7世紀のはじめに宮を構えた「斑鳩(いかるが)」の里です。太子の一族が暮らした宮の跡には寺が建ち、三つの塔が今も田んぼの向こうに見えます。
世界遺産法隆寺地域の仏教建造物(1993年)
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
なぜ、都から離れた斑鳩に
史実『日本書紀』によれば、聖徳太子(厩戸皇子、574〜622年)は推古9年(601年)に斑鳩に宮を造り始め、605年に移り住みました。当時の都は約20km南東の飛鳥です。太子は冠位十二階(603年)や十七条憲法(604年)を定め、607年には小野妹子を隋に遣わした政治の中心人物でした。
有力説斑鳩は大和川のほとりにあり、難波(大阪)の港から飛鳥へ向かう水運と陸路の要所でした。大陸や朝鮮半島からの使者や文物を迎えやすい場所に、太子は自分の拠点を置いたと考えられています。蘇我氏の本拠の飛鳥から少し距離を取るためだった、という見方もあります。
太子一族の悲劇
史実太子の死から21年後の643年、蘇我入鹿の兵が斑鳩宮を襲いました。太子の子・山背大兄王は、いったんは生駒山に逃れたものの、民を戦に巻き込むことを避けて斑鳩寺(法隆寺)に戻り、一族そろって自ら命を絶ったと『日本書紀』は伝えます。太子の血筋はここで絶えました。
史実斑鳩宮の跡には、のちに法隆寺東院(夢殿)が建てられました(法隆寺の部屋)。
法起寺――現存最古の三重塔
史実法隆寺から北東へ約1.5km。太子が『法華経』を講じた岡本宮の跡を寺に改めたと伝わるのが法起寺(ほっきじ)です。境内の三重塔(高さ約24m)は現存する三重塔として日本最古です。完成は706年と伝わりますが、根拠となる塔の露盤銘は失われ、後の書物に写された記録によっています。法隆寺とともに世界遺産の構成資産になっています。
史実伽藍の配置も独特で、東に金堂・西に塔を置く法隆寺とは左右が逆(東に塔・西に金堂)で、「法起寺式」と呼ばれます。
中宮寺――頬に指を当てた微笑み
史実夢殿のすぐ東にある尼寺・中宮寺は、太子の母・穴穂部間人皇后の宮を寺にしたと伝わります。本尊の菩薩半跏像(国宝、寺では如意輪観音と伝える)は、右足を左ひざにのせ、右手の指先をそっと頬に当てて微笑む木像です。
都市伝説この像の表情は「アルカイック・スマイル」の代表とされ、モナ・リザ、エジプトのスフィンクスと並ぶ「世界三大微笑」と紹介されることがあります。ただし誰がいつ決めた「三大」なのかははっきりしません。


法輪寺――作家が建て直した塔
史実法起寺の西にある法輪寺にも、かつて飛鳥様式の三重塔(国宝)がありました。ところが1944年(昭和19年)7月、落雷で焼失してしまいます。
史実再建の資金集めに力を尽くしたのが、作家の幸田文(幸田露伴の娘)でした。宮大工の西岡常一らの手で、1975年に塔はよみがえります。斑鳩の三つの塔のうち、一つは戦後の人々の熱意で戻ってきたものなのです。
ここを見る:三つの塔が見える道
法隆寺東院から法輪寺、法起寺へと田んぼの中の道を歩くと、斑鳩の三つの塔が入れ替わりに見えてきます。秋は法起寺の周りにコスモスが咲き、塔と花の写真を撮る人が集まります。
聖徳太子は実在したのか
有力説1990年代、「聖徳太子」という超人的な人物像は後の時代につくられたものだ、という説が話題になりました。現在は、厩戸皇子という皇族が実在し、政治に深くかかわったことは多くの研究者が認めています。一方で「一度に10人の訴えを聞き分けた」といった逸話は、後の太子信仰の中で生まれた伝承です。
主な参考資料:法起寺・中宮寺・法輪寺 各寺の公式情報/斑鳩町「斑鳩の歴史」/『日本書紀』推古紀・皇極紀/文化庁 国指定文化財等データベース