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11 — REMEMBRANCE

関東大震災と東京大空襲

1923年9月1日と、1945年3月10日。東京は、わずか20年あまりのあいだに二度、焼け野原になりました。そのたびに多くの命が失われ、街は形を変えて立ち上がってきました。二つの災禍を、記録と数字に沿って振り返ります。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

1923年9月1日 午前11時58分

史実1923年9月1日午前11時58分、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲いました。関東大震災です。ちょうど昼食の支度で火を使っていた時間で、強い風にあおられて東京の各地で火災が起き、下町を中心に市街地の広い範囲が焼けました。

史実震災による死者・行方不明者は約10万5千人とされ、その多くが火災による犠牲でした。本所の陸軍被服廠跡の空き地には、多くの人が家財道具を持って避難していましたが、そこへ火災の旋風が襲いかかり、この一か所だけで約3万8千人が亡くなりました。

史実震災の混乱のなかで、朝鮮人が暴動を起こしたといった根拠のない流言が広がり、自警団などによって多くの朝鮮人や中国人、また朝鮮人と間違えられた日本人が殺害される事件も起きました。

約10万5千人関東大震災の死者・行方不明者
約10万人1945年3月10日の東京大空襲による死者(推計)
9月1日「防災の日」

後藤新平の帝都復興

史実震災の翌日に発足した内閣で、復興の中心を担ったのが、内務大臣・帝都復興院総裁の後藤新平です。後藤はかつて台湾の民政長官として台北などの都市づくりに取り組み、その後は東京市長も務めた人物でした。

史実後藤の当初の計画は大規模すぎるとして予算は大幅に削られましたが、それでも昭和通りや靖国通りなどの幹線道路、隅田公園などの公園、鉄筋コンクリートの復興小学校、同潤会アパートなどが整えられました。隅田川に架けられた永代橋と清洲橋は、今では国の重要文化財です。

1945年3月10日

史実太平洋戦争の末期、東京は100回を超える空襲を受けました。なかでも1945年3月10日の未明、約300機のB-29が下町に大量の焼夷弾を落とした東京大空襲では、強い北風のなかで火災が広がり、一夜のうちに約10万人が亡くなったとされます。深川、本所、浅草などの下町は、再び焼け野原になりました。

史実その後も4月、5月と空襲は続き、山の手を含む東京の市街地の多くが焼けました。皇居の宮殿や東京駅のドームも、このとき焼け落ちています。

ここを見る:横網町公園の東京都慰霊堂

墨田区の横網町公園は、関東大震災で多くの人が亡くなった陸軍被服廠跡につくられた公園です。園内の東京都慰霊堂には、関東大震災と東京大空襲で亡くなった人々の遺骨が納められています。敷地内の復興記念館には、火災で溶けて固まった品々などが展示されています。毎年3月10日と9月1日には、慰霊の法要が営まれます。

東京都慰霊堂
東京都慰霊堂墨田区横網
清洲橋
清洲橋中央区・江東区

9月1日は「防災の日」

関東大震災が起きた9月1日は、1960年から「防災の日」とされています。学校や職場では避難訓練が行われ、非常用の持ち出し袋を点検する日にもなっています。東京が二度の焼け野原から学んだ教訓は、今も毎年の備えの中に受け継がれています。戦後の東京の歩みは、戦後の部屋へ。

主な参考資料:内閣府「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書(1923 関東大震災)」/東京都慰霊協会/東京大空襲・戦災資料センター

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