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15 — YAMANOTE

山の手と大名屋敷

東京の西側に広がる武蔵野台地。坂を上り下りするこの「山の手」には、江戸時代、全国の大名の屋敷が並んでいました。その広い敷地は、明治になって大学や公園、ホテルや官庁に生まれ変わります。今の東京の「広い場所」の多くは、元大名屋敷なのです。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

台地と谷の街

史実東京の地形は、西の武蔵野台地と、東の川沿いの低地に大きく分けられます。台地の東の端は、細い谷がいくつも刻み込まれた、指を広げた手のひらのような形をしています。そのため山の手には、坂がたくさんあります。

史実江戸時代、見晴らしがよく水はけのよい台地の上には武家屋敷が、低地には町人の町が広がりました。これが「山の手」と「下町」の始まりです。坂には「潮見坂」「富士見坂」「暗闇坂」「幽霊坂」など、見える景色や雰囲気にちなんだ名前がつけられ、今も標柱が立っています。

参勤交代と大名屋敷

史実江戸時代、全国の大名は参勤交代で江戸と国元を行き来し、妻子は江戸に住むことが義務づけられていました。そのため大名は江戸に、藩主が住む上屋敷、隠居や家族が住む中屋敷、別荘や倉庫として使う下屋敷など、複数の屋敷を持っていました。武家地は江戸の面積の6割以上を占めていたといわれます。

明治維新で大名がいなくなると、広い屋敷の跡地は新しい国の施設に使われていきます。これが、東京の中心部に大学や公園、官庁が集まる理由の一つです。

大名屋敷は、いま何になった?

史実東京大学(本郷):加賀藩前田家の上屋敷。有名な赤門は、1827年、11代将軍家斉の娘・溶姫が前田家に嫁ぐ際に建てられた門です。将軍家の姫を迎える大名は、朱塗りの門を建てるのが習わしでした。赤門は国の重要文化財です。

史実新宿御苑:信濃高遠藩内藤家の下屋敷。明治になって農業の試験場となり、のちに皇室の庭園を経て国民公園になりました。

史実六本木ヒルズの毛利庭園:長州藩の支藩、長府藩毛利家の上屋敷の庭園の名残です。この屋敷では、赤穂浪士のうち10人が預けられ、切腹しました。また、日露戦争の将軍乃木希典が生まれた場所でもあります。

史実小石川後楽園:水戸徳川家の上屋敷の庭園。「後楽園」の名は、中国の書物の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という言葉からとられました。

6割以上江戸の面積に占めた武家地の割合(といわれる)
1827東京大学の赤門が建てられる
44.6m山手線の内側で一番高い箱根山

ここを見る:戸山公園の箱根山

新宿区の戸山公園には、標高44.6メートルの箱根山があります。山手線の内側で一番高い地点ですが、これは尾張徳川家の下屋敷の庭園「戸山荘」で、池を掘った土を盛ってつくった人工の山です。尾張家は庭の中に東海道の宿場町を模した町並みまでつくり、将軍を招いて楽しんだといわれます。

東京大学の赤門
東京大学の赤門文京区本郷
新宿御苑
新宿御苑新宿区・渋谷区

主な参考資料:東京大学「赤門」/環境省「新宿御苑の歴史」/東京都公園協会「小石川後楽園」/新宿区「戸山公園」/港区「毛利庭園」

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