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09 — CIVILISATION & ENLIGHTENMENT
文明開化と帝都
明治の東京には、ガス灯、煉瓦の街並み、洋風の舞踏会、エレベーター付きの高層塔と、「西洋」が次々に現れました。人々はそれを「文明開化」と呼び、驚き、面白がり、ときに反発しました。近代都市・東京の誕生をたどります。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
大火から生まれた銀座煉瓦街
史実1872年、和田倉門のあたりから出た火は、銀座から築地までを焼き尽くしました。明治政府はこれをきっかけに、燃えにくい街をつくろうと、イギリス人技師ウォートルスの設計で、銀座に煉瓦造りの街並みを建設します。1877年ごろに完成した銀座煉瓦街には、歩道と車道が分けられた広い通りと、並木が整えられました。
有力説ところが、湿気がこもる、家賃が高いなどの理由で、はじめは住む人がなかなか集まらなかったといわれます。やがて新聞社や洋品店、時計店が集まり、銀座は流行の発信地になっていきました。
ガス灯と「銀ブラ」
史実1874年、銀座の通りにガス灯がともされました(日本初のガス灯は1872年の横浜)。夜の街を明るく照らす灯りを見るため、多くの人が銀座に集まりました。大正時代になると、銀座の通りをぶらぶら歩くことを「銀ブラ」と呼ぶようになります。
「銀ブラ」は「銀座でブラジルコーヒー」
「銀ブラ」とは、銀座のカフェーでブラジルコーヒーを飲むことだった――という説が、近年広まっている。
「ぶらぶら歩き」が一般的
大正時代の資料などから、「銀座をぶらぶら歩く」意味で使われていたとする見方が一般的。コーヒー説は、後の時代に広まったものと考えられている。
鹿鳴館と「欧化」
史実1883年、日比谷に洋風の社交場鹿鳴館が完成しました。設計はイギリス人建築家ジョサイア・コンドル。欧米との不平等条約の改正を目指した政府は、ここで舞踏会を開き、日本が「文明国」であることを示そうとしました。しかし、慣れない洋装やダンスは「猿まね」と批判も受けます。鹿鳴館は1940年に取り壊され、今は跡地を示す碑があるだけです。
史実コンドルは工部大学校(今の東京大学工学部)で、東京駅を設計した辰野金吾など、日本の建築家を育てました。彼の作品のうち、湯島の旧岩崎邸や、建設を監督したニコライ堂などが今も残っています。
浅草十二階 ― 日本初のエレベーター
史実1890年、浅草に12階建て、高さ約52メートルの凌雲閣が完成しました。人々は「浅草十二階」と呼びました。当時としては驚くほど高い建物で、日本で初めての電動式エレベーターが設けられたことでも話題になりました。
史実しかし1923年の関東大震災で、凌雲閣は上の階から崩れ落ち、その後取り壊されました。2018年、浅草の工事現場から、凌雲閣の基礎とみられる煉瓦が見つかっています。
ここを見る:上野の旧岩崎邸庭園
三菱の創業者一族・岩崎家の本邸として1896年に建てられた洋館です。設計はコンドル。木造2階建ての洋館と和館、撞球室(ビリヤード場)が残り、国の重要文化財です。明治の東京の「西洋」を、室内まで歩いて体感できます。


主な参考資料:中央区「銀座煉瓦街」/東京都「旧岩崎邸庭園」/台東区「凌雲閣」/千代田区「鹿鳴館跡」