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01 — EDO CASTLE

江戸城と皇居

江戸城は、外堀まで含めると周囲およそ16キロにもなったといわれる日本最大級の城でした。けれど今、皇居の森に天守の姿はありません。天下の城は、なぜ天守を失ったまま200年以上を過ごしたのでしょうか。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

「の」の字に広がる城下町

史実徳川家康・秀忠・家光の三代をかけて、江戸城は巨大な城へと整えられていきました。本丸を中心に、内堀と外堀が渦を巻くようにめぐらされ、そのまわりに大名屋敷、旗本の屋敷、町人の町、寺社が配置されました。

有力説ひらがなの「の」の字のような渦巻き状の堀は、城下町を外へ外へと広げていけるように考えられたものだともいわれます。外堀の一部は今も残り、JR中央線の飯田橋〜四ツ谷のあたりでは、電車の窓から水面が見えます。

三度建て、三度とも違う天守

史実江戸城の天守は、家康、秀忠、家光の代にそれぞれ建てられ、そのたびに建て直されています。家光の代の1638年に完成した天守は、高さ約58メートル(天守台を含む)ともいわれる、日本の城でも最大級のものでした。

史実ところが1657年、江戸の大半を焼いた明暦の大火で、この天守も焼け落ちます。翌年には加賀藩の前田家の手で新しい天守台の石垣が築かれましたが、天守そのものは建てられませんでした。

ここを見る:天守台の「焼けた石」

皇居東御苑に残る天守台の石垣をよく見ると、黒ずんで割れたような石が見つかります。江戸城で何度も起きた火災の熱で焼けた跡だといわれています。天守台の上に上ると、かつての本丸の広さがよく分かります。

天守より、町の復興を

史実天守の再建をとりやめたのは、4代将軍家綱を補佐していた保科正之だとされます。戦のない世に天守は必要ない、それよりも焼け出された人々の暮らしと町の復興に費用を回すべきだ、という判断でした。以後、江戸城は幕末まで天守のない城として過ごします。

約16km外堀を含めた江戸城の周囲(といわれる)
1657明暦の大火で天守が焼失
1948「宮城」から「皇居」へ名前が変わる

江戸城から皇居へ

史実1868年、江戸城は戦わずに新政府に明け渡され(幕末の部屋)、「東京城」と改められました。翌年、明治天皇が入り、「皇城」、のちに「宮城」と呼ばれるようになります。今の皇居という呼び名は1948年からです。

史実本丸・二の丸・三の丸の一部は皇居東御苑として整備され、一般に公開されています。同心番所や百人番所、富士見櫓など、江戸城の建物もいくつか残っています。

門の名前は、地名になった

江戸城には多くの門があり、その名前は今も地名や駅名として残っています。大手町(大手門)、虎ノ門、半蔵門、桜田門、赤坂見附、四ツ谷、市ケ谷、飯田橋の近くの牛込見附など。「見附」とは、見張りの番所がある門のことです。地下鉄の駅名をたどると、江戸城の門をぐるりと一周できます(地名トリビアの部屋)。

江戸城の天守台
江戸城天守台皇居東御苑
二重橋と伏見櫓
二重橋と伏見櫓皇居

皇居ランナー

皇居の周囲は1周約5キロ。信号がなく、距離の目安がはっきりしていることから、多くのランナーが走るコースになっています。反時計回りに走るのがマナーとされています。かつて大名たちが行列で通った堀端を、今は世界中の人が走っているのです。

主な参考資料:宮内庁「皇居東御苑」/千代田区「江戸城外堀跡」/東京都公文書館

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