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00 — ORIGINS
入江の村・江戸
家康がやって来たころの江戸は「さびれた寒村だった」と語られることがあります。けれど本当にそうだったのでしょうか。海と湿地が入り組んだ入江の地が、どのようにして世界有数の都市の土台になったのかをたどります。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
江戸氏と「入江の入口」
史実平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、この地には武士の江戸氏が館を構えていました。「江戸」という地名は、このころの記録にすでに現れます。
有力説「江戸」の由来にはいくつかの説がありますが、「江」は入江や川、「戸」は入口を意味し、入江の入口にあたる場所という意味だとする説がよく知られています。当時、今の皇居の東側には日比谷入江という海が深く入り込んでいました。
1457年、太田道灌の江戸城
史実1457年、関東を治めていた扇谷上杉家の家臣・太田道灌が、入江を見下ろす台地の端に江戸城を築きました。道灌は学問や和歌にもすぐれた武将で、江戸城は交通の要所を押さえる拠点として栄え、城下には各地から船が集まったと伝えられます。
史実しかし道灌は1486年、主君に殺されてしまいます。その後、江戸城は北条氏の支配下に入りました。
「山吹の里」の少女
鷹狩りの途中で雨にあった道灌が蓑を借りようとすると、少女が山吹の花を一枝差し出した。「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という古歌に、蓑(実の)ひとつない貧しさを重ねたのだと知った道灌は、自分の無学を恥じて歌を学んだ――という話が伝わる。
歌人としての道灌
話の真偽は分からないが、道灌が和歌に通じた文化人だったことは確か。新宿区や豊島区などには「山吹の里」の伝承地がいくつもある。
1590年、家康がやって来た
史実1590年、豊臣秀吉は北条氏を滅ぼすと、徳川家康に関東への国替えを命じました。家康は小田原や鎌倉ではなく、江戸を本拠に選びます。江戸城に入ったのは8月1日(八朔)とされ、この日は江戸時代を通じて大切な祝日になりました。
「江戸は何もない寒村だった」
家康が来たころの江戸は、茅葺きの家が百軒ほどあるだけの貧しい漁村で、城も荒れ果てていた――と、後の時代の書物にしばしば書かれてきた。
実は水運の要所だった
近年の研究では、江戸は中世から品川や浅草とともに船が行き交う交通の要所だったと考えられている。「寒村」の話は、家康の功績を大きく見せるための誇張ではないか、という見方が有力。
山を崩して、海を埋める
史実家康はさっそく大工事に取りかかります。城へ物資を運ぶ道三堀や、行徳の塩を運ぶ小名木川を掘り、1603年に将軍になると、全国の大名を動員して神田山(今の駿河台あたり)を崩し、その土で日比谷入江を埋め立てました。
こうして生まれた土地に、町人の町や大名屋敷が建てられていきます。今の丸の内、日比谷、新橋のあたりは、もとは海でした(埋め立ての部屋)。
ここを見る:東京国際フォーラムの道灌像
有楽町の東京国際フォーラムのガラス棟の中に、鷹狩り姿の太田道灌の像があります。もとは旧東京都庁舎の前にあったもので、都庁の移転とともにここへ移されました。東京の「最初の開発者」は、今も街の真ん中に立っています。

主な参考資料:東京都公文書館/千代田区「千代田区史」/国立公文書館「江戸の地図」