トップ / 川・堀・暗渠

05 — WATER CITY

川・堀・暗渠

江戸は、ヴェネツィアのような水の都でした。町には堀や運河が網の目のようにめぐり、荷物も人も船で運ばれました。その多くは埋め立てられ、あるいは地下に隠されましたが、よく見ると今も東京のあちこちに水の記憶が残っています。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

運河の町・江戸

史実江戸の町には、江戸城の堀、日本橋川、京橋川、楓川、小名木川など、たくさんの堀や運河が掘られていました。重い米や材木、酒や醤油を運ぶには、道よりも船のほうがずっと便利だったからです。河岸(かし)と呼ばれる船着き場には蔵が並び、魚河岸、米河岸などの市場が栄えました。

神田川は、人が掘った川

史実もともと今の神田川の下流は、江戸城の方へ流れ込んで、たびたび洪水を起こしていました。2代将軍秀忠の時代、伊達家などに命じて本郷台地を切り通し、川の流れを東の隅田川へ変える大工事が行われます。御茶ノ水駅のあたりで、神田川が深い谷の底を流れているのはこのためです。この人工の谷は「茗渓(めいけい)」とも呼ばれ、中国の景勝地にたとえられました。

ここを見る:御茶ノ水の「谷」

聖橋から神田川を見下ろしてみてください。深い谷の底を川が流れ、その上を丸ノ内線、中央線、総武線の電車が行き交います。この谷は、人の手で台地を削ってつくったものです。江戸時代の土木工事のスケールがよく分かる場所です。

「春の小川」は渋谷にあった

史実「春の小川は さらさら行くよ」で知られる唱歌「春の小川」(1912年)。作詞した高野辰之は代々木に住んでいて、近くを流れていた河骨川(こうほねがわ)がモデルだとされます。河骨川は渋谷川の支流でした。

史実けれど今、その小川は見当たりません。戦後、東京の中小の川の多くは、下水道として使うためにふたをされ、道路や遊歩道になりました。このように地下に隠された川を暗渠(あんきょ)といいます。代々木の小田急線沿いには、「春の小川」の歌碑が立っています。

1912唱歌「春の小川」が発表される
戦後多くの中小河川が暗渠になる
1962首都高速の最初の区間(京橋〜芝浦)が開通

首都高速が川の上を走る理由

史実1964年の東京オリンピックに向けて、首都高速道路は急いで造られました。家や土地を買い取って道路を通すには、時間もお金も足りません。そこで目をつけられたのが、川や堀の上でした。日本橋川、京橋川、汐留川などの上に高架が架けられたり、堀が埋め立てられて道路になったりしました。

史実銀座を囲んでいた堀も埋め立てられ、その上を首都高速が通っています。銀座の周りに「数寄屋橋」「京橋」「新橋」など、今は川のない場所に「橋」のつく地名が多いのは、かつてそこに堀と橋があったからです(地名の部屋)。

御茶ノ水の神田川
御茶ノ水の神田川千代田区・文京区
唱歌「春の小川」の歌碑
「春の小川」の歌碑—

川の跡を見分けるコツ

くねくねと曲がった細い道、両側より少し低い道、車止めのある長い遊歩道、道の途中に残る「〇〇橋」の親柱。こうした場所は、暗渠の上かもしれません。地図で昔の川の流れと重ねてみると、見慣れた街がまったく違って見えてきます。

主な参考資料:東京都建設局「東京の川」/渋谷区「春の小川」/首都高速道路「首都高の歴史」

広告