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02 — CITY OF A MILLION

百万都市・江戸の暮らし

18世紀の初めごろ、江戸の人口は100万人を超えていたともいわれます。同じころのロンドンやパリを上回る、世界有数の大都市です。これだけの人が暮らす町を、水や火事やごみの問題から、どうやって支えていたのでしょうか。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

人口の半分が、町の2割に

有力説江戸の人口は、武士と町人がおよそ半分ずつだったと考えられています。ところが、町の面積の多くは大名屋敷や武家地、寺社地が占め、町人が住む町人地は全体の2割ほどしかありませんでした。50万人ほどの町人が、その狭い土地にひしめき合って暮らしていたのです。

史実町人の多くが住んだのが、表通りから路地を入った奥に並ぶ裏長屋です。「九尺二間」と呼ばれる、畳でいえば4畳半ほどの部屋に、家族で暮らすことも珍しくありませんでした。井戸、便所、ごみ捨て場は長屋の住人で共同で使いました。

100万人18世紀初めの江戸の人口(推計)
約2割江戸の面積に占める町人地の割合(推計)
約43km玉川上水の長さ(羽村〜四谷大木戸)

水道の水で産湯をつかう

史実埋め立て地の多い江戸では、井戸を掘っても塩辛い水しか出ない場所がたくさんありました。そこで幕府は、井の頭池などを水源とする神田上水、そして1653年には多摩川の水を羽村から引く玉川上水をつくります。水は地下に埋めた木や石の管を通って町中に届けられ、人々は「上水井戸」からくみ上げて使いました。

江戸っ子は「水道の水で産湯をつかった」ことを自慢にしたといわれます。水道は、大都市・江戸の誇りだったのです(多摩の部屋)。

火事と喧嘩は江戸の華

史実木と紙の家が密集した江戸では、火事がとても多く起きました。1657年の明暦の大火では、江戸の大半が焼け、亡くなった人は数万人から10万人ともいわれます。

史実1720年、町奉行の大岡忠相は、町人たちによる消防組織町火消を「いろは」47組(のちに48組)に編成しました。当時の消火は、水をかけるより、燃えている建物のまわりの家を壊して火が広がるのを止める「破壊消防」が中心です。組の目印の纏(まとい)を屋根の上で振る火消したちは、江戸の人気者でした。

ここを見る:両国・回向院

両国の回向院は、明暦の大火で亡くなった身元の分からない人々を弔うために建てられた寺です。のちにこの境内で勧進相撲が開かれるようになり、両国が「相撲の町」になるきっかけの一つになりました(文化の部屋)。

究極のリサイクル都市

史実江戸の町は、ものを徹底的に使い回す町でした。古着屋、古道具屋、壊れた鍋や釜を直す鋳掛屋、傘の骨を買い取る古傘買い、ろうそくのしずくを集める業者までいました。人のし尿も近郊の農家が買い取り、畑の肥料として使われました。

有力説こうした仕組みのおかげで、江戸の町は同じ時代のヨーロッパの大都市に比べて清潔だった、と考えられています。

江戸の町並みの再現展示
長屋の再現江東区など
回向院
回向院墨田区両国

「宵越しの銭は持たない」

稼いだお金はその日のうちに使い切る、という江戸っ子の気風を表す言葉です。いつ火事で焼け出されるか分からない町で、ものを貯め込むより、その日を楽しむ。江戸っ子の気前のよさには、そんな暮らしの事情もあったのかもしれません。

主な参考資料:東京都水道歴史館/東京消防庁「消防の歴史」/江東区深川江戸資料館/『東京百年史』

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