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08 — FROM EDO TO TOKYO

幕末・江戸から東京へ

黒船の来航から15年。260年続いた幕府は倒れ、江戸は「東京」になりました。100万人が暮らす町は、なぜ戦火に焼かれずにすんだのか。そして東京は、どうやって日本の首都になったのか。激動の幕末の江戸をたどります。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

黒船とお台場

史実1853年、アメリカのペリーが率いる4隻の艦隊が浦賀沖に現れました。「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれたほど、江戸は大騒ぎになります。幕府は江戸湾の守りを固めるため、品川沖に急いで砲台の島品川台場を築きました(埋め立ての部屋)。

桜田門外の変

史実1860年3月、雪の降る朝、江戸城の桜田門の外で、大老井伊直弼が水戸藩の浪士らに襲われて命を落としました。天皇の許しを得ずにアメリカと条約を結び、反対する人々を厳しく処罰した井伊への反発からでした。幕府の最高責任者が、将軍のお膝元で殺された事件は、幕府の権威を大きく揺るがしました。

江戸無血開城

史実1868年、鳥羽・伏見の戦いに勝った新政府軍は、江戸へ向けて進軍し、江戸城への総攻撃を3月15日と決めます。その直前の3月13日と14日、幕府側の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が、江戸の薩摩藩邸で会談しました。

史実話し合いの結果、総攻撃は中止され、4月11日、江戸城は戦うことなく新政府に明け渡されました。これを江戸無血開城といいます。100万人が暮らす江戸の町は、戦火を免れたのです。

ここを見る:田町駅前の「会見の地」の碑

JR田町駅の近くに「西郷南洲・勝海舟会見之地」の碑があります。当時このあたりは薩摩藩の蔵屋敷で、すぐ前は海でした。オフィスビルに囲まれた一角で、江戸の運命が決まったのです。

彰義隊と上野戦争

史実開城に納得できない旧幕臣たちは彰義隊を結成し、上野の寛永寺にたてこもりました。1868年5月15日、新政府軍はわずか1日で彰義隊を破りますが、この戦いで寛永寺の建物の多くが焼けました。焼け跡は、のちに上野公園として生まれ変わります(上野の部屋)。

「東京」の誕生と、なかった遷都の詔

史実1868年7月、江戸は「東京」と改められました。「東の京」、つまり西の京都に対する東の都という意味です。9月には元号が明治に変わり、10月、明治天皇が初めて東京に入ります。天皇はいったん京都へ戻り、翌1869年に再び東京へ移って、そのまま住み続けました。

史実このとき、京都から東京へ都を移すという正式な遷都の詔は出されませんでした。そのため、この出来事は「遷都」ではなく、都を新たに定めるという意味の「奠都(てんと)」と呼ばれることがあります。

都市伝説

「実は今も首都は京都」

遷都の詔が出ていないのだから、法律上の首都はいまも京都のままだ――という話が、ときどき話題になる。

有力説

首都を定めた法律はない

日本には「首都はどこか」を直接定めた法律がないのは事実。ただ、東京に国会や政府、皇居が置かれ、実際に首都として機能していることから、東京を首都とみなすのが一般的な理解となっている。

1853ペリー来航
1868.4.11江戸城の無血開城
1868.7江戸が「東京」と改められる
桜田門
桜田門千代田区皇居外苑
西郷南洲・勝海舟会見之地の碑
会見の地の碑港区芝

主な参考資料:国立公文書館「江戸から東京へ」/港区「西郷・勝会見の地」/東京都公文書館/台東区「上野戦争」

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