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03 — NIHONBASHI
日本橋と五街道
江戸時代、全国の道はこの橋から始まりました。そして今も、日本の国道の距離はこの橋を基準に測られています。魚河岸のにぎわい、越後屋の商い、そして頭上をふさぐ高速道路。日本の真ん中の橋の物語です。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
1603年、日本の起点
史実日本橋が最初に架けられたのは、家康が征夷大将軍になった1603年とされます。翌1604年、幕府は日本橋を五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の起点と定めました。街道には1里(約4キロ)ごとに一里塚が築かれ、距離はすべて日本橋から測られました。
有力説「日本橋」という名前の由来には、「日本中の人が集まる橋だから」「二本の丸太を渡した橋だったから」などの説があります。はっきりしたことは分かっていません。
道路元標 ― 今も日本の真ん中
史実今の日本橋は1911年に架けられた、2連アーチの石造りの橋で、国の重要文化財です。橋の真ん中の道路には、日本の道路網の起点を示す「日本国道路元標」が埋め込まれています。東京から各地への国道の距離は、ここから数えられています。
ここを見る:麒麟と獅子、そして道路元標の複製
橋の欄干には、青銅の麒麟と獅子の像があります。麒麟には翼がついていて、「日本橋から全国へ飛び立つ」という願いが込められているといわれます。車道の元標は近づけませんが、橋のたもとの広場に複製が置かれていて、間近で見られます。
魚河岸と越後屋
史実日本橋のたもとには、江戸時代から魚河岸がありました。家康が大坂の佃村から呼び寄せた漁師たちが、将軍に献上した残りの魚を売ったのが始まりとされます。「一日に千両の金が動く」といわれるほどのにぎわいでした。魚河岸は関東大震災のあと築地へ移り、2018年には豊洲へ移りました(食の部屋)。
史実日本橋の北には、三井家の呉服店越後屋がありました。店先で現金で売り、値引きをしない「現金掛け値なし」という当時としては新しい売り方で繁盛しました。越後屋はのちの三越です。
首都高の下の橋
史実1963年、1964年の東京オリンピックに向けて、日本橋の真上に首都高速道路が架けられました。用地を確保する時間も費用もないなか、川の上は高速道路を通すのに都合がよかったのです(川の部屋)。
史実「日本橋の空を取り戻そう」という声は長く続き、現在、日本橋のまわりの首都高速を地下に移す工事が進められています。地下のルートが完成したあと、橋の上の高架は撤去される計画です。


「お江戸日本橋七つ立ち」
江戸時代、旅人は朝の七つ時(午前4時ごろ)に日本橋を出発して東海道を西へ向かったといわれ、このことは民謡「お江戸日本橋」にも歌われています。歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』も、最初の一枚は日本橋から始まります。
主な参考資料:中央区「日本橋」/国土交通省・首都高速道路「日本橋区間地下化事業」/三越伊勢丹「三越の歴史」