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06 — SHIRAKAWA-GO
白川郷と合掌造り
飛騨の北西、庄川の谷あいに、手を合わせたような急な茅葺き屋根の家が集まる村があります。白川郷の合掌造り。その形は、ただ雪に耐えるためだけのものではありませんでした。屋根裏では蚕を育て、床下では火薬の原料をつくっていたのです。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
手を合わせた形の屋根
史実合掌造りは、茅で葺いた急な傾きの切妻屋根を持つ家です。屋根の形が、手のひらを合わせた「合掌」に似ていることから、この名で呼ばれます。急な屋根は、この地方に降り積もる大量の雪を滑り落とし、重みで家がつぶれるのを防ぎました。
史実屋根を支える丸太の組み方には、釘をほとんど使いません。木と木を縄や、マンサクの若木をねじった「ネソ」で縛って組み上げます。しなやかに結ばれた骨組みは、雪の重みや風の力を受け流すことができました。
屋根裏の蚕、床下の火薬
史実合掌造りの屋根裏は、2層から4層に仕切られた広い空間です。ここで行われていたのが養蚕でした。妻側(三角形の面)の大きな窓から光と風が入り、囲炉裏の煙と熱が上がってくる屋根裏は、蚕を育てるのに適していたのです。
史実床下では、火薬の原料になる焔硝(えんしょう)がつくられていました。床下に掘った穴に、蚕の糞や草、土を積み重ねて何年も寝かせ、しみ出した成分を煮詰めて焔硝を取り出します。米が十分にとれない山あいの村にとって、生糸と焔硝は貴重な現金収入でした。
史実明治時代の調査では、白川村の一部の地域で、一つの家に数十人が暮らす大家族の暮らしが記録されています。大きな合掌造りの家は、大勢の家族が住み、働く場でもありました。
村人総出の「結」
史実茅葺き屋根は、数十年ごとに葺き替えなければなりません。広い屋根の葺き替えは、一軒の家だけではとてもできない大仕事です。そこで村の人々は「結(ゆい)」と呼ばれる助け合いの仕組みで、総出で屋根を葺き替えてきました。今も葺き替えの日には、村内外から大勢の人が集まり、一日で片面の屋根を葺き上げます。
史実茅葺きの家が密集する村にとって、最大の敵は火事です。荻町には放水銃が備えられ、毎年秋には、放水銃から一斉に水を噴き上げる訓練が行われます。
一夜で消えた帰雲城
史実戦国時代、白川郷を治めていたのは内ヶ島氏でした。1586年1月(天正13年11月)、中部地方を大地震が襲います(天正地震)。帰雲山が大きく崩れ、内ヶ島氏理の居城・帰雲城と城下町は土砂に埋まりました。城では祝宴が開かれていたといわれ、城主一族は全滅。埋まった家は300戸以上、死者は500人以上と伝えられます。
史実帰雲城がどこにあったのかは、今も分かっていません。国道沿いの保木脇に城址の碑が建てられています。この城に眠るという黄金の話は、伝説の部屋で紹介します。
ここを見る:屋根の向き
展望台から荻町を見下ろすと、合掌造りの家の多くが、屋根の妻側(三角形の面)を南北に向けてそろって建っていることに気づきます。谷を吹き抜ける風を受け流し、屋根に日光がまんべんなく当たって雪がとけやすいように、という工夫だと考えられています。


主な参考資料:文化庁 文化遺産オンライン「白川郷・五箇山の合掌造り集落」/白川村役場/国土交通省 多言語解説文データベース「白川郷合掌造り集落」/岐阜県「天正地震と帰雲城」