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11 — THE PASS
野麦峠と工女たち
飛騨と信州の境にそびえる標高1,672メートルの野麦峠。明治から大正にかけて、雪の残るこの峠を、飛騨の少女たちが列をなして越えていきました。向かう先は、信州・岡谷や諏訪の製糸工場。日本の近代化を支えた生糸は、彼女たちの手で紡がれていたのです。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
峠を越える少女たち
史実明治時代、日本の輸出品の中心は生糸でした。長野県の岡谷や諏訪には、蚕の繭から糸を取る製糸工場が次々と建てられ、多くの働き手が必要とされました。そこへ働きに出たのが、現金収入の少ない飛騨の村々の女性たち、その多くは10代の少女でした。
史実彼女たちは、冬の終わりに飛騨を出て、雪の残る野麦峠を越えて信州へ向かい、年の暮れに稼いだお金を持って再び峠を越えて帰りました。道中では、峠の「お助け小屋」が寒さと疲れに倒れそうな旅人を助けました。
「ああ、飛騨が見える」
史実吉城郡河合村角川(今の飛騨市河合町)に生まれた政井みねは、岡谷の製糸工場で働いていました。1909年、工場から「ミネビョウキスグヒキトレ」という電報を受けた兄の辰次郎は、信州へみねを迎えに行き、みねを背負って飛騨へ向かいます。
史実11月20日、野麦峠にたどり着いたみねは、「ああ、飛騨が見える」とつぶやいて、兄の背中で息を引き取ったと伝えられます。数えで21歳でした。峠には今、みねを背負う兄の姿をかたどった像が立っています。
『あゝ野麦峠』が伝えたもの
史実作家の山本茂実は、元工女たちへの聞き取りを重ね、1968年にノンフィクション『あゝ野麦峠』を発表しました。長時間の労働や厳しい管理の中で働いた工女たちの姿は大きな反響を呼び、1979年には映画化もされています。
有力説一方で、山本は聞き取りの中で、工場の暮らしを、家にいたころより良かったと振り返る元工女たちの声も書き留めています。貧しい山村の少女たちにとって、工場で得る賃金は家族を支える大切なお金でした。苦しさと誇りの両方が、峠を越えた工女たちの記憶なのです(書籍の部屋)。
ここを見る:お助け小屋と峠の像
峠には、江戸時代からあった「お助け小屋」が再現されています。晴れた日には、峠から乗鞍岳の雄大な姿が目の前に広がります。峠へ続く道は冬の間は閉鎖されるので、訪れるのは夏から秋にかけてです。


主な参考資料:山本茂実『あゝ野麦峠』/高山市「野麦峠」/飛騨市「政井みね」/岡谷蚕糸博物館