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01 — CASTLE TOWN
金森長近と高山城
高山の町の骨格をつくったのは、戦国時代の一人の武将でした。織田信長に仕え、茶の湯を愛した金森長近。山あいの盆地に城を築き、川と寺と町人の町を整えました。城はもう残っていませんが、長近が描いた町の設計図は、400年たった今も生きています。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
信長の家臣、飛騨へ
史実金森長近は、若いころから織田信長に仕えた武将です。「長近」の「長」の字は、信長から与えられたものといわれます。信長の死後は豊臣秀吉に従い、1585年、秀吉の命を受けて飛騨に攻め入り、この地を治めていた三木(姉小路)氏を破りました。
史実翌年、飛騨一国を与えられた長近は、宮川のほとりの小高い山に城を築き始めます。これが高山城です。工事は1588年から十数年に及び、山の上に本丸、二の丸、三の丸が並ぶ本格的な城ができあがりました。
川と寺と町人の町
史実長近は、城のある山のふもとに武家屋敷を、その北側の宮川沿いに町人の町を配置しました。町は南北に通りが走る整った町割りで、これが今の「古い町並」の元になっています(町並みの部屋)。町の東側の山すそには寺院を集め、城下の守りとしました。
「京都をまねて町をつくった」
京の文化を愛した長近が、東山に寺を並べ、宮川を鴨川に見立てて、京都に似せた町をつくった――と語られる。高山が「飛騨の小京都」と呼ばれる理由の一つとされる。
山の町ならではの設計
城と武家地、町人地、寺町を分けて配置するのは、当時の城下町に共通するつくり方でもある。高山の場合は、川と山にはさまれた盆地の地形を生かして町が整えられた。
茶の湯の殿様たち
史実長近は、千利休とも交流のあった茶人でもありました。茶の湯の心は子孫にも受け継がれ、2代可重の子・金森重近は、のちに京都で茶道の一派「宗和流」を開き、「金森宗和」の名で知られるようになります。飛騨春慶塗が生まれたのも、この重近にまつわる話からです(工芸の部屋)。
殿様が去り、城が消えた
史実金森氏は6代107年にわたって飛騨を治めましたが、1692年、6代頼旹(よりとき)は出羽国(今の山形県)の上山へ移されます。飛騨は幕府が直接治める天領になりました(天領の部屋)。主を失った高山城は、加賀藩の管理のもとで1695年に取り壊されます。
ここを見る:城山公園の本丸跡
高山城があった山は、今は城山公園になっています。遊歩道を登ると、本丸跡に石垣の一部が残り、木々の間から高山の町並みと北アルプスを見下ろせます。長近が町を見渡した場所に立つと、町割りの意味がよく分かります。


主な参考資料:高山市「高山の歴史」/高山市「高山城跡」/岐阜県「飛騨の歴史」/高山市郷土館