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01 — 戦略

槍より算盤、
刀より茶碗。

百万石を超える所領を持つ外様大名は、徳川にとって「いつ牙をむいてもおかしくない存在」でした。 それでも前田家は取り潰されることなく、江戸時代を最後まで生き延びます。 その裏には、算盤を手放さなかった創業者、自ら人質になった妻、愚か者を演じた三代目、学問に賭けた五代目がいました。 戦国から泰平へ、「強さ」の意味を読み替えた一族の物語です。

前田利家を祀る尾山神社の拝殿
尾山神社(利家とまつを祀る)

創業者

傾奇者は、浪人生活で「金」を知った。

若き日の前田利家は、派手な身なりで町を歩く傾奇者(かぶきもの)でした。三間半(約6.3m)もの長槍を振るい、戦場で手柄を重ねて「槍の又左」と呼ばれます。史実

ところが永禄2年(1559年)、信長が寵愛する茶坊主・拾阿弥といさかいを起こし、斬り捨てて出奔。いわゆる「笄斬り(こうがいぎり)」事件で、利家は主君のもとを離れ、浪人暮らしを余儀なくされます。この時期、食べるにも困る生活のなかで、利家はお金の怖さを身にしみて知ったといわれます。

のちに利家は、金があれば他人も世間の評判も恐ろしくないが、貧しくなると世の中ほど恐ろしいものはない、という趣旨の言葉を残したと伝わります。そして、戦場にも算盤を持ち歩いたという利家愛用の算盤は、前田家の家宝として今に伝わっています。有力説

この算盤の遠い子孫

加賀藩には藩の財政を担う「御算用者(ごさんようもの)」という会計専門の藩士たちがいました。その一家・猪山家が幕末から明治にかけて付けた家計簿を読み解いたのが、磯田道史『武士の家計簿』です。利家の算盤から二百数十年、加賀の「数字に強い武士」の系譜は、映画にもなるほど具体的な記録として残りました。

人質という外交

まつは、自ら江戸へ向かった。

慶長4年(1599年)、利家が大坂で没すると、跡を継いだ長男・利長に徳川家康から謀反の嫌疑がかけられます。家康は「加賀征伐」をちらつかせ、前田家は存亡の危機に立たされました。

このとき、事態を収めたのが利家の妻・まつ(芳春院)でした。利長は母が江戸へ人質として下ることを受け入れ、加賀征伐は撤回されます。慶長5年(1600年)に江戸へ入ったまつは、以後およそ14年間を江戸で過ごし、故郷へ戻れたのは利長が亡くなった後のことでした。史実

  1. 1599利家の死、前田家に謀反の嫌疑家康が加賀征伐を示唆する。
  2. 1600まつが人質として江戸へ大大名の家族が江戸に住むという、早い時期の例となる。
  3. 江戸大名の妻子は江戸住まいが原則にのちに参勤交代とともに制度として定着していく。
  4. いま「利家とまつ」の物語まつの決断は、加賀百万石の出発点として語り継がれている。

※大名妻子の江戸在府は複数の大名の動きが重なって定着したもので、まつ一人が制度を生んだわけではありません。ただ、百万石の大名家の母が自ら江戸に入ったことの政治的な重みは、しばしば「先駆け」として語られます。

三代目

愚か者を演じ、文化に賭けた殿様

三代藩主・前田利常は、二代将軍秀忠の娘・珠姫を正室に迎えた、徳川と最も近い外様大名の一人です。それでも寛永8年(1631年)、金沢城の修築や家臣の人選をめぐって謀反の疑いをかけられ、急ぎ江戸に下って弁明するという危機を経験しました。史実

利常にまつわる最も有名な話が、冒頭の鼻毛の逸話です。わざと鼻毛を伸ばして暗愚を装い、見かねた家臣に「この鼻毛で三国と皆の暮らしを守っているのだ」と答えた、というもの。伝承井原西鶴『日本永代蔵』などに由来する話で、事実かどうかは分かりません。

確かなのは、利常が藩の富をどこへ注いだかです。利常は城内に御細工所を設けて工芸職人を抱え、京都から名工や文化人を招き、小堀遠州らとも交わって茶の湯や作庭を取り入れました。「加賀ルネサンス」とも呼ばれるこの文化振興が、金沢の工芸・菓子・茶の湯文化の土台になります。軍備にお金を使えば疑われる。ならば、文化に使えばいい――それは泰平の世における、最も賢い「防衛費」だったのかもしれません。

寛永16年(1639年)、利常は家督を譲ると、次男に富山藩、三男に大聖寺藩を分け与え、自らは小松に隠居しました。前田家は一つの大藩から、本家と二つの支藩という形になり、それぞれが続いていきます。

五代目

「加賀は天下の書府なり」

五代藩主・前田綱紀は、わずか3歳で家督を継ぎ、隠居するまで実に約80年も藩主の座にありました。後見役は岳父にあたる会津藩主・保科正之。名君として知られた正之の影響を受け、綱紀は学問と福祉に力を注ぎます。

綱紀は書物奉行を置いて全国から古典籍を集め、工芸の見本を分類・整理した『百工比照』を編ませました。その蔵書の充実ぶりは、朱子学者・新井白石に「加賀は天下の書府なり」と言わしめるほど。前田家の収集品は、現在も東京・駒場の前田育徳会(尊経閣文庫)に伝わっています。

さらに寛文の飢饉の際には、困窮した人々を収容して米や医療を与える「非人小屋(御小屋)」を設け、のちには仕事を覚えさせる施設まで併設しました。江戸時代の福祉政策として、しばしば紹介される取り組みです。史実

そして綱紀は、将軍綱吉が能を好んだことをきっかけに宝生流を学び、藩の能楽を宝生流に統一します。これが、町の職人までが謡を口ずさむ「加賀宝生」の始まりでした(「金箔と工芸」へ)。

白石
加賀は天下の書府なり
新井白石が綱紀の蔵書収集をたたえた言葉として伝わる

江戸に残った加賀

東大の赤門は、加賀藩の門だった。

加賀藩の江戸上屋敷は、本郷にありました。現在の東京大学本郷キャンパスです。あの有名な赤門は、文政10年(1827年)、十一代将軍家斉の娘・溶姫が十三代藩主・前田斉泰に嫁ぐ際に建てられた「御守殿門」。将軍家から姫を迎える大名だけが朱塗りの門を建てることを許されました。史実

江戸の町で名を馳せた加賀藩の大名火消し「加賀鳶」も、この上屋敷を拠点にしていました。派手な装束と勇ましさで知られた加賀鳶の心意気は、金沢の出初式で披露される「加賀鳶はしご登り」に今も受け継がれています。

東京大学本郷キャンパスの赤門
赤門東京・本郷
出初式で披露される加賀鳶はしご登り
加賀鳶はしご登り金沢市

四人の当主と一人の妻

加賀百万石を形づくった人々

前田利家の肖像
1538頃 – 1599

前田利家まえだ としいえ

加賀藩祖/槍の又左

尾張荒子の出身。信長・秀吉に仕え、晩年は豊臣政権の五大老として家康と並ぶ重鎮に。金沢城に入り、城下町の基礎を築いた。

芳春院(まつ)の肖像
1547 – 1617

まつ(芳春院)ほうしゅんいん

利家の妻/前田家存続の立役者

二男九女をもうけたと伝わり、利家を公私にわたって支えた。夫の死後、自ら江戸に人質として下り、加賀征伐の危機を回避した。

前田利常の肖像
1594 – 1658

前田利常まえだ としつね

三代藩主/加賀ルネサンスの主導者

御細工所の設置、改作法による農政改革、支藩の分立など、加賀藩の骨格をつくった。「鼻毛の殿様」の逸話で知られる。

前田綱紀の肖像
1643 – 1724

前田綱紀まえだ つなのり

五代藩主/「天下の書府」の主

古典籍の収集、『百工比照』の編纂、宝生流の奨励、救貧施設の設置。学問と文化の藩としての加賀を決定づけた。

肖像はいずれも江戸時代に描かれたとされる肖像画です。生年には諸説あるものがあります。

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