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03 — 水
ポンプのない時代、
水は坂を上った。
寛永8年(1631年)、金沢の城と城下は大火に見舞われました。台地の上の城には、火を消す水がない。 翌年、一人の技術者が、はるか上流の犀川から城の中まで水を引き、 最後の区間では谷を下った水を再び台地の上へと押し上げてみせます。 いまも市内を流れる55本の用水は、この町が「水で守られてきた」ことの証です。

辰巳用水
約11km、1年足らずの大工事
寛永の大火の翌年、寛永9年(1632年)に完成した辰巳用水は、金沢の南東、犀川上流の上辰巳町あたりで取水し、小立野台地の上を通って兼六園、そして金沢城へと水を運ぶ用水です。総延長はおよそ11km。設計・施工にあたったのは板屋兵四郎と伝えられ、工事は着手から1年足らずで完成したといいます。有力説
難所は上流部の約4kmに及ぶトンネルでした。犀川沿いの崖に沿って岩盤をくり抜いていくこの区間では、崖側から何本もの横穴を掘り、そこから同時に工事を進めたと考えられています。横穴は掘った土石を捨てる出口や、明かり取り・換気口の役割も果たしたといいます。
平成22年(2010年)、上流部から中流部の約8.7kmが国の史跡に指定されました。約四百年前の土木遺産が、今も現役で水を流していることになります。
伏越の理
谷を越えるために、水を「押し上げた」。
辰巳用水の最大の見せ場は、兼六園から金沢城へ水を渡すところにあります。兼六園と金沢城のあいだには、百間堀と呼ばれる深い谷(現在の百間堀通り)がありました。水は高いところから低いところへしか流れません。谷を越えて、向こう側の少し低いだけの城へ、どうやって水を届けるのか。
答えは、密閉した管でした。兼六園側で水を管に入れ、いったん谷底へ下ろし、再び城側へ上らせる。入口の水面が出口よりも高ければ、管の中の水は圧力に押されて、坂を上って出てきます。いまでいう逆サイフォンの原理で、当時は「伏越(ふせこし)の理」と呼ばれました。史実
管は当初は木で作られ、のちに富山県砺波地方で採れる金屋石(かなやいし)をくり抜いた石管に替えられました。石管の一部は今も保存されていて、兼六園周辺などで見ることができます。
兼六園の桂坂口から石川門へ向かうとき、石川橋の下を通る百間堀通りを見下ろしてみてください。あの道路こそが、かつて水が管で越えた谷底です。背後の兼六園、目の前の城、そして真下の谷――逆サイフォンの舞台がひと目で分かります。
日本最古の噴水
電気もポンプも使わない噴水
兼六園の霞ヶ池の下手に、小さな噴水があります。十三代藩主・前田斉泰の時代、幕末に試作されたと伝わるもので、日本最古の噴水とされています。
仕組みは、辰巳用水と同じ伏越の理。高い位置にある霞ヶ池から管で水を引き、低い場所で噴き出させているだけです。動力はいっさい使っていません。そのため、噴き上がる高さは、霞ヶ池の水面の高さとほぼ同じになります。池の水位が変われば、噴水の高さも変わるのです。
城へ水を届けるための技術が、二百年あまり後に、庭を楽しませる仕掛けとして使われた。金沢の水の技術の、優雅な後日談です。
55本の用水
町じゅうに、水の道がある。
金沢の市街地には、辰巳用水のほかにも鞍月用水、大野庄用水、東内惣構堀など、名前の付いた用水が55本、合計の長さはおよそ150kmにも及ぶとされます。多くは犀川や浅野川から水を引き、町の中を網の目のように流れています。
なかでも古いとされるのが、長町武家屋敷跡の土塀に沿って流れる大野庄用水です。金沢城を築く際、木材などの資材を運ぶのに使われたとも言われ、「御荷川(おにかわ)」の別名が残っています。有力説
火事のときの水源
木造の町並みが密集する城下町では、用水が消火用の水の供給源でした。辰巳用水建設のきっかけも大火です。
雪を流す川
冬には、屋根や道から下ろした雪を用水に流して処理しました。今でも地域の取り決めのもとで行われています。
武家屋敷の庭の池へ
用水の水は武家屋敷の庭にも引き込まれ、曲水や池をつくりました。野村家庭園などで今も見られます。
友禅を洗う水
かつては川で加賀友禅の余分な染料や糊を洗い流す「友禅流し」が行われ、金沢の冬の風物詩でした。
冬の金沢では、道路の中央から水が噴き出しています。地下水をまいて雪を溶かす消雪装置で、昭和の大雪を経て市内に広く普及しました。便利な反面、歩行者の靴やズボンの裾は容赦なく濡れます。地元の人が冬に長靴を履く理由の一つです。



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水辺にできた、迷路の町
用水と坂と寺に囲まれた城下町は、わざと「分かりにくく」つくられていました。