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08 — 人物
台湾の水、ワシントンの桜、
世界のZEN。
金沢の名は知らなくても、その人たちが残したものは世界中の人が知っている。 台湾南部の平野を潤すダム、アメリカの首都に春を告げる桜並木、欧米の知識人を魅了した禅の思想。 さらには、天文学の教科書に載る一つの記号まで。海の向こうに足跡を残した金沢ゆかりの人々を紹介します。

八田與一
台湾の教科書に載る、金沢の土木技師
明治19年(1886年)、現在の金沢市今町に生まれた八田與一は、四高から東京帝国大学の土木科へ進み、卒業後まもなく台湾総督府の技師として海を渡りました。
当時、台湾南部の嘉南平原は、雨季には洪水、乾季には干ばつに苦しむ不毛の土地でした。八田は大正9年(1920年)から10年をかけて烏山頭(うさんとう)ダムと、平原に張り巡らせた水路網嘉南大圳(かなんたいしゅう)を完成させます。水路の総延長はおよそ1万6000km。広大な平野が、一大穀倉地帯に生まれ変わりました。
八田が優れていたのは、技術だけではありません。限られた水を公平に行き渡らせるため、地域ごとに稲・サトウキビ・雑作を順番に作る「三年輪作」の給水法を考案し、農民とともに水を分け合うしくみをつくりました。工事中の事故で亡くなった人々の名は、日本人も台湾人も区別なく慰霊碑に刻まれたといいます。
昭和17年(1942年)、八田はフィリピンへ向かう客船「大洋丸」が撃沈され、56歳で亡くなります。終戦直後の昭和20年(1945年)9月1日、妻の外代樹(とよき)は、夫が築いた烏山頭ダムの放水口に身を投じました。
烏山頭ダムのほとりには、作業着姿で座り込み、思案する八田の銅像があります。毎年、命日の5月8日には現地の人々による墓前祭が営まれ、金沢からも関係者が参列しています。台湾の中学の歴史教科書でも取り上げられ、2011年にはダムの近くに八田與一記念公園が整備されました。金沢と台湾を結ぶ、最も太い糸の一本です。
銅像は戦時中の金属供出や戦後の混乱を避けるため、地元の人々によって隠されて守られ、のちに元の場所に戻されたと伝えられています。有力説
高峰譲吉
ポトマック河畔の桜を贈った化学者
嘉永7年(1854年)に高岡で生まれた高峰譲吉は、翌年、父が加賀藩の洋学校・壮猶館の教授に登用されたのに伴って金沢へ移り、幼少期をこの町で過ごしました。西洋の科学に触れる土壌が、すでにそこにありました。
渡米した高峰は、明治27年(1894年)に消化酵素「タカジアスターゼ」を開発。明治33年(1900年)には助手の上中啓三とともに、ウシの副腎からアドレナリンを世界で初めて結晶として取り出すことに成功します。史実
ところがアメリカでは、別の研究者が名づけた「エピネフリン」の名が広まり、高峰の業績は長く正当に評価されませんでした。日本の公定書である日本薬局方で「アドレナリン」が正式名称となったのは、発見から100年以上たった2006年のことです。
そして明治45年(1912年)、東京市からワシントンへ贈られた桜。この日米友好の象徴の実現に、高峰は尾崎行雄東京市長らとともに尽力し、費用面でも大きな役割を果たしました。毎春、全米桜祭りで賑わうポトマック河畔の風景の向こうに、金沢で育った一人の化学者がいるのです。
鈴木大拙
ZENを世界語にした人
明治3年(1870年)、金沢の本多町に生まれた鈴木大拙(本名・貞太郎)は、家計の事情で四高を中退した後、鎌倉の円覚寺で禅の修行を積みました。明治30年(1897年)に渡米し、11年にわたって出版社で東洋思想の翻訳に携わります。
大拙は、禅や日本文化についての著作を英語で数多く著し、欧米に「ZEN」という言葉と思想を広めました。戦後はコロンビア大学などで講義を行い、その思想は哲学者や芸術家、音楽家にまで影響を与えたといわれます。
2011年、生家の近くに開館した鈴木大拙館は、水面に建物が浮かぶような「水鏡の庭」で知られる静かな空間です。設計したのは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の新館も手がけた建築家・谷口吉生。その父・谷口吉郎もまた金沢出身の建築家でした。金沢から世界へ、そして世界から金沢へ――思想と建築が一つの場所で重なります。


天文学のZ項
世界の天文学者が知る「Kimura」
明治3年(1870年)に金沢で生まれた天文学者・木村栄(ひさし)は、岩手県水沢の緯度観測所で地球の自転軸のわずかな揺れを観測し、明治35年(1902年)、それまでの計算式に欠けていた項を発見しました。「Z項」、海外では「Kimura term」とも呼ばれます。
当時、日本の観測データは精度が低いと国際的に疑われていましたが、木村の発見はその評価を一変させました。昭和12年(1937年)には、第1回の文化勲章を受章しています。
高山右近
金沢に26年、マニラに眠るキリシタン大名
最後に、金沢に「やってきて」、そして世界へ「追われた」人を。キリシタン大名高山右近は、豊臣秀吉のバテレン追放令で領地を失った後、天正16年(1588年)から前田家の客将として金沢で暮らしました。築城や惣構の掘削(「金沢城と惣構」)に力を発揮し、茶人としても知られた右近は、加賀の文化にも影響を与えたといわれます。
慶長19年(1614年)、徳川幕府のキリシタン国外追放令によって、右近は金沢を去り、フィリピンのマニラへ送られました。現地で歓迎を受けたものの、到着から40日ほどで病に倒れ、翌年亡くなります。史実マニラには今も右近の像が立ち、2017年には、カトリック教会で聖人に次ぐ「福者」に列せられました。
人物
海を渡った金沢ゆかりの人々

八田與一はった よいち
土木技師/金沢市今町生まれ
台湾・烏山頭ダムと嘉南大圳を建設。台湾で今も敬愛される日本人の一人。

高峰譲吉たかみね じょうきち
化学者・実業家/高岡生まれ、金沢育ち
タカジアスターゼ、アドレナリンの結晶化。理化学研究所の設立にも関わった。

鈴木大拙すずき だいせつ
仏教学者/金沢市本多町生まれ
英文の著作を通じて禅を世界に紹介。西田幾多郎とは生涯の友。

木村栄きむら ひさし
天文学者/金沢生まれ
緯度変化の「Z項」を発見。第1回文化勲章受章者。
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本当か、嘘か。
忍者のいない忍者寺、ハトが寄りつかない銅像、灯台だったかもしれない神門。金沢の伝説と都市伝説を、ラベル付きで検証します。