トップ / 城
02 — 城
天守のない城は、
石垣で語る。
金沢城の天守は、慶長7年(1602年)に落雷で焼けて以来、二度と建てられませんでした。 その代わりに残ったのが、時代ごとに積み方の違う石垣、雪国ならではの白い鉛の瓦、 そして城下を二重に囲んだ堀の跡です。天守がないからこそ見えてくる、この城の「読みどころ」を歩きます。

石垣の博物館
一つの城で、石垣の歴史が全部見られる。
金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれます。度重なる火災や地震のたびに修築が繰り返され、そのたびに当時の技術で石が積まれたため、一つの城の中に、戦国期から江戸後期までのさまざまな積み方が同居しているのです。
見分け方は、石と石の「すき間」
自然石積み(野面積み)は、ほとんど加工しない石を積んだもの。すき間が多く、小石が詰めてあります。粗加工石積み(打ち込みハギ)は、石の角や面を割って合わせやすくしたもの。切石積み(切り込みハギ)は、石をきっちり四角に加工し、すき間なく組み上げたもの。時代が下るほど、すき間は小さく、見た目は整っていきます。
極めつけが、玉泉院丸庭園に面した「色紙短冊積み」です。長方形や正方形の石を色紙や短冊に見立てて組み込み、上部には石樋から水が落ちる滝の仕掛けまであったといいます。防御のための石垣を、庭から眺める「作品」にしてしまう――加賀藩の美意識がよく表れた石垣です。
石の表面に刻まれた記号(刻印)を探してみてください。丸や三角、文字のような印は、石を切り出した石工の集団や担当を示すものと考えられています。金沢城の石垣には、こうした刻印がたくさん見つかっています。
白い屋根の謎
雪でもないのに、屋根が白い。
石川門や菱櫓の屋根を見上げると、瓦が白っぽい灰色に光っています。これは焼き物の瓦ではなく、木で瓦の形をつくり、その上に鉛の板を張った「鉛瓦」です。鉛は時間がたつと表面が酸化して白くなるため、晴れた日には雪が積もっているかのように見えます。
なぜ鉛なのか。よく語られるのが「いざ籠城となったら、屋根をはがして溶かし、鉄砲の弾にするため」という説です。伝承いかにも戦国らしい話ですが、実際に弾にされた記録があるわけではありません。
もう一つの説明は、もっと実務的です。焼き物の瓦は冬の寒さで水を吸って凍り、割れやすい。鉛瓦は軽く、凍害に強く、しかも見栄えがいい。雪国の城に向いた屋根材だったというわけです。有力説どちらか一つではなく、両方の理由が重なっていたと考えるのが自然でしょう。
出窓のふりをした、石落とし
石川門や菱櫓の壁には、屋根の付いた優美な出窓(唐破風の出窓)があります。実はこれ、床に開口部があり、石垣をよじ登ってくる敵に石を落としたり鉄砲を撃ったりするための「石落とし」を兼ねています。壁の下半分を覆う格子模様の海鼠壁(なまこかべ)も、雨や雪から土壁を守るための工夫。美しさの裏に、実用と防御が必ず隠れているのが金沢城の流儀です。
ちなみに菱櫓は、その名の通り建物の平面がひし形をしています。角度は直角ではなく約80度と100度。柱まで菱形に削られているため、2001年の木造復元では大工泣かせの難工事になったといわれます。
惣構
キリシタン大名が、27日で掘った堀。
慶長4年(1599年)、利家が亡くなると、前田家と徳川家康の緊張は一気に高まりました。このとき城下の防御を任されたのが、客将として前田家に身を寄せていた高山右近です。
バテレン追放令で領地を失ったキリシタン大名・右近は、天正16年(1588年)から前田家に仕え、築城の名手としても知られていました。右近はこの年の12月から、城のまわりを囲む内惣構(うちそうがまえ)の堀の掘削を指揮し、約3kmをわずか27日で完成させたと伝わります。有力説小田原城の堀に倣ったともいわれます。その後、慶長15年(1610年)にはさらに外側に外惣構が築かれ、金沢の城下は二重の堀で守られることになりました。
堀の多くは明治以降に埋められましたが、痕跡は町のあちこちに残っています。ゆるやかにカーブする細い道、急に一段低くなる土地、道路脇を流れる用水――それらをつなぐと、かつての堀のラインが浮かび上がります。東内惣構堀の一部は近年、水をたたえた姿に整備されました。
地図アプリで金沢の中心部を見ると、まっすぐな大通りの間に、弧を描く細道と水路が見つかります。それが惣構の名残であることが多いのです。惣構の土塁や堀を示す案内板も、市内の数か所に立っています。
近代の金沢城
城の中に軍隊がいて、大学があった。
明治になると、金沢城は陸軍の施設になります。明治8年(1875年)に歩兵第七連隊が置かれ、明治31年(1898年)からは第九師団司令部が置かれました。明治14年(1881年)の火災で多くの建物が失われるなか、石川門や三十間長屋などは焼け残り、現在は国の重要文化財になっています。
戦後、城跡には金沢大学がやってきました。昭和24年(1949年)から平成7年(1995年)まで、およそ半世紀にわたって城の中に大学のキャンパスがあったのです。史実「石川門をくぐって講義に行く」「お堀端でデート」――今の50代以上の金沢の人のなかには、そんな記憶を持つ人も少なくありません。
大学が郊外の角間へ移転した後、城跡は「金沢城公園」として整備され、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の木造復元(2001年)、玉泉院丸庭園(2015年)、鼠多門・鼠多門橋(2020年)など、失われた姿が一つずつ取り戻されつつあります。



年表
燃えては建て直した城
前田利家、入城
佐久間盛政の城を引き継ぎ、本格的な城づくりが始まる。
内惣構の掘削
高山右近の指揮で城下に堀が巡らされる。
天守、落雷で焼失
以後、天守は再建されず、三階櫓が代わりを務めた。
寛永の大火
城も大きな被害を受け、翌年の辰巳用水建設につながる。
宝暦の大火
城と城下の大半が焼ける。石川門は再建され、現在の門はこの後のもの。
第九師団司令部が置かれる
城は軍都・金沢の中枢となる。
金沢大学のキャンパスに
全国でも珍しい「城の中の大学」。
木造復元が続く
菱櫓・五十間長屋、玉泉院丸庭園、鼠多門などがよみがえる。
次を読む
城に水を吹き上げた男
寛永の大火の翌年、一人の町人技術者が、山の水を台地の上の城へ届けました。ポンプのない時代に、どうやって?