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05 — 工芸

禁じられても、
打ち続けた。

国内の金箔のほとんどは、金沢で作られています。 けれどもその歴史は順風満帆ではなく、江戸時代には幕府によって箔の製造が厳しく統制されていました。 藩の工房から生まれ、藩が消えても町に残った手わざ。 金箔、友禅、焼き物、そして職人が屋根の上で口ずさんだ謡まで、工芸王国・金沢の底力をたどります。

箔打ちの作業をする職人の手元
箔打ちの手わざ

金沢箔

1グラムの金を、畳の半分近くまで。

金箔の厚さは、およそ1万分の1ミリ。1グラムの金を、約0.5平方メートル――畳の半分近い広さにまで打ち延ばします。向こうが透けて見えるほど薄く、息を吹きかけただけで舞い上がる金箔を、金沢の職人は竹の道具で一枚ずつ扱います。

金沢市によれば、金箔の国内シェアは98%以上、銀箔はほぼ100%。仏壇、寺社建築、漆器、屏風、西陣織の金糸、そして近年は食用やコスメまで、日本の「金色」のほとんどが金沢から出荷されています。

幕府との二百年

1593

利家、箔打ちを命じる

朝鮮出兵のさなか、前田利家が陣中から「七尾で金箔、金沢で銀箔を打て」と命じた書状が残る。これが金沢の箔の始まりとされる。

1696

幕府、江戸に箔座を置く

金銀の管理を強めるため、箔の製造・販売を江戸の箔座に独占させ、各地での製造を禁じる。

江戸後期

統制のなかで技をつなぐ

金沢城や寺社の修復には箔が欠かせない。藩の御用や、ひそかな「隠し打ち」で技が受け継がれたと伝わる。

1864

越野左助、箔打ちの公許を得る

長年の働きかけが実り、金沢での箔打ちが公式に認められる。

明治以降

統制の撤廃、そして日本一の産地へ

金座・銀座の廃止で自由化。大正期には箔打ち機が開発され、生産が大きく伸びる。

※江戸時代の「隠し打ち」については、密かに製造が続けられたことを示す伝承や史料の解釈があるものの、その規模や実態には不明な点も多くあります。伝承

縁付金箔とあぶらとり紙

金箔より大事な「紙」の話

金箔づくりの秘密は、実は金ではなく紙にあります。金を挟んで打つための和紙「箔打ち紙」は、雁皮などを原料にした紙を、藁の灰汁や柿渋、卵白などを使った液に浸しては打つ工程を何度も繰り返し、数か月かけて仕上げるといいます。この「紙仕込み」の出来が、箔の品質を決めるのです。

この伝統的な製法でつくる縁付(えんつけ)金箔の技術は、2020年、「伝統建築工匠の技」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されました。現在は、グラシン紙などを使って効率よく大量に作る「断切(たちきり)」という製法もあり、用途によって使い分けられています。

そして、金箔を打つのに何度も使い古された箔打ち紙には、意外な使い道がありました。皮脂をよく吸い取るため、芸妓や役者が化粧直しに重宝したのです。これがあぶらとり紙の始まりとされます。金沢土産の定番は、金箔づくりの「副産物」だったわけです。

加賀友禅

葉っぱの「虫食い」まで描く。

着物の染め技法・友禅の名は、京都で扇絵師として人気を博した宮崎友禅斎に由来します。友禅斎は晩年に金沢へ移り住み、加賀の染め物に影響を与えたと伝えられています。有力説

加賀友禅の特徴は、写実的な草花の絵柄と、加賀五彩と呼ばれる落ち着いた色づかいです。臙脂(えんじ)・藍・黄土・草・古代紫の五色を基調とし、金箔や刺繍を多用する京友禅とは対照的に、染めそのものの美しさで勝負します。

玄人が注目するのは、葉に描かれた「虫喰い」。虫に食われた穴や、枯れかけた葉の変色まで、あえて描き込むのです。完璧な美しさではなく、自然のありのままを写す――それが加賀友禅の美意識です。ぼかしも、京友禅が内側に向かって濃くなるのに対して、加賀友禅は外側から内側へ淡くなる「外ぼかし」が多いとされます。

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このサイトのトップページにある十二の部屋のカード。上端の色が、実は加賀五彩の順番になっています。臙脂、藍、黄土、草、古代紫。

焼き物

ろくろを使わない茶碗と、産地論争の器

大樋焼 ― 茶人が連れてきた陶工

寛文6年(1666年)、五代藩主・綱紀は裏千家四代・仙叟宗室を茶道奉行として京都から招きました。このとき同行した陶工・長左衛門が、金沢近郊の大樋村で良い土を見つけて開いたのが大樋焼です。史実ろくろを使わず、手びねりとへら削りで形をつくる楽焼の流れをくみ、雪国にふさわしい温かな飴色の釉薬が特徴。窯は今も続いています。

仙叟が金沢にもたらした茶の湯は、藩士から町人にまで広がりました。金沢の人が日常的に抹茶を飲み、和菓子をたくさん食べる理由は、ここにさかのぼります(「加賀の食と和菓子」へ)。

九谷焼 ― 「古九谷」はどこで焼かれたのか

加賀藩の支藩・大聖寺藩の領内、九谷村で17世紀中ごろに焼かれ始めたとされる古九谷。大胆な色絵で知られますが、窯はわずか数十年で途絶え、のちに再興されます。

ところがこの古九谷には、大きな論争があります。「古九谷とされる器の多くは、実は九州の有田で焼かれたものではないか」という説です。有力説窯跡の発掘や科学的な分析が進み、有田説を支持する研究が多くなる一方で、九谷での生産を示す証拠もあり、議論は今も続いています。焼き物好きのあいだでは、有名な「産地論争」です。

加賀宝生

空から、謡が降ってくる。

綱紀が宝生流の能を奨励して以来、加賀藩では能楽が武士だけでなく町人にも広がりました。藩は、本業のかたわら能を演じる町人を「町役者」として保護し、名字を名乗ることや税の免除まで認めたといいます。

その結果、大工や左官、屋根職人の親方までが謡をたしなむようになりました。屋根を葺きながら謡を口ずさむ職人の声が頭上から聞こえてくる様子を、人々は「空から謡が降ってくる」と表現したと伝わります。伝承

明治維新で藩の後ろ盾を失い、加賀宝生は一時衰えますが、実業家・佐野吉之助が私財を投じて能楽堂を建てるなどして立て直しました。金沢駅の東口にそびえる鼓門が、能楽で使う「鼓」をかたどっているのも、この歴史をふまえたものです。

加賀友禅の着物の柄のアップ
加賀友禅虫喰いの表現
飴色の釉がかかった大樋焼の茶碗
大樋焼飴釉の茶碗
金沢駅の鼓門
鼓門金沢駅

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茶の湯が育てた、甘いもの好きの町

和菓子の支出額で全国トップを争う金沢。冬の雷が告げるブリの季節、おでんのカニ面まで、加賀の食卓へ。

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