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02 — TSUGARU & NANBU
津軽と南部
青森県は、一つの県なのに二つの顔を持っています。西の「津軽」と東の「南部」。言葉も、祭りも、人の気質も違います。その始まりは戦国時代、一人の家臣が主家から独立したことでした。400年以上前の対立は、今も地元の会話の中に生きています。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
家臣の独立 ― 津軽為信
史実戦国時代、今の青森県の大部分は、三戸(さんのへ)を本拠とする南部氏の勢力の下にありました。その一族で家臣だった大浦為信は、1571年に南部氏の城を攻め落としたのを手始めに、津軽地方を次々と手中に収めていきます。
史実為信は、豊臣秀吉が天下統一を進めると、南部氏より先に秀吉のもとへ使いを送り、1590年、津軽の領地を認められました。姓を「津軽」と改め、ここに弘前藩(津軽藩)の歴史が始まります。一方の南部氏から見れば、為信は領地を奪った裏切り者でした。
200年続いた因縁 ― 相馬大作事件
史実江戸時代を通じて、弘前藩と盛岡藩(南部藩)の関係は冷えたままでした。1821年には、盛岡藩士の下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)が、参勤交代から帰る弘前藩主・津軽寧親を矢立峠で待ち伏せて討とうとする事件が起きます。計画は事前にもれて失敗し、秀之進は捕らえられて処刑されました。
有力説背景には、格式の問題があったと考えられています。もとは家臣筋だった津軽家の藩主の官位や家格が、南部家と並ぶほどに上がったことへの反発です。秀之進は「相馬大作」の名で講談や芝居に取り上げられ、江戸で大評判になりました。
戊辰戦争と、一つの県へ
史実1868年の戊辰戦争では、弘前藩ははじめ奥羽越列藩同盟に加わりますが、やがて新政府の側に移ります。盛岡藩は同盟の側にとどまり、両藩の兵は野辺地で戦火を交えました(野辺地戦争)。
史実1871年の廃藩置県で、弘前・黒石・八戸・七戸・斗南(となみ)などの県が合わさって一つの県になり、県庁は弘前から青森へ移されました。こうして、津軽と南部の一部(今の八戸・十和田・下北など)が同じ「青森県」になったのです。
「県庁は、どちらの側にも置けなかった」
津軽の中心・弘前にも、南部の中心・八戸にも県庁を置けなかったので、両方の境に近い青森になった――と冗談まじりに語られることがある。
今も残る「津軽」と「南部」
史実津軽の人は、自分たちの性格を「じょっぱり」(意地っ張り、頑固者)と言い表します。言葉も、津軽弁と南部弁ではずいぶん違います(言葉の部屋)。夏祭りも、津軽は「ねぶた・ねぷた」、南部の八戸は「三社大祭」です(祭りの部屋・八戸の部屋)。
ここを見る:藩境塚
平内町の狩場沢と野辺地町の馬門の間には、津軽領と南部領の境を示すために築かれた藩境塚が残っています。小川をはさんで、両藩が向かい合わせに土を盛った塚です。小さな川一本が、かつての「国境」でした。


主な参考資料:弘前市「弘前藩の歴史」/青森県史/盛岡市先人記念館/野辺地町「藩境塚」