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04 — IN MEMORIAM
八甲田雪中行軍
1902年1月、青森の歩兵第5連隊の210人が、雪の八甲田山へ向かいました。生きて帰ることができたのは11人でした。世界の山岳遭難の中でも最悪級とされるこの出来事を、記録に残る事実と数字に沿って、静かにたどります。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
なぜ冬の山へ向かったのか
史実1902年(明治35年)、日本はロシアとの戦争が近いことを意識していました。寒さの厳しい土地での戦いに備え、雪の中で兵を動かすための経験と情報が求められていました。青森の歩兵第5連隊は、青森から八甲田山の北側を越えて田代(たしろ)方面へ向かう、雪中行軍を計画します。
史実1月23日の朝、神成文吉大尉が率い、大隊長の山口鋠少佐らも同行した210人が、青森の屯営を出発しました。
記録的な寒波の中で
史実この時、日本の上空には非常に強い寒気が流れ込んでいました。1月25日には、北海道の旭川で氷点下41.0度が観測されています。これは今も日本の最低気温の公式記録です。
史実隊は猛烈な吹雪の中で道を失い、山中での露営を重ねるうちに、凍傷と疲労で次々と兵が倒れていきました。救助隊が捜索を始めたのは、出発から数日後のことでした。
史実最初に発見された生存者の一人、後藤房之助伍長は、雪の中に立ったまま仮死状態で見つかりました。その発見が、隊の遭難を知らせる手がかりになったといわれています。
弘前の隊は踏破していた
史実同じ時期、弘前の歩兵第31連隊も、福島泰蔵大尉が率いる少人数の隊で、弘前から十和田湖を回り、八甲田を越えて青森へ出る、より長い行程の雪中行軍を行っていました。地元の村人に道案内を頼み、十分な準備をした隊は、全員が行程を終えています。
有力説両隊の結果を分けたものとして、人数の多さ、装備や準備、地元の案内人の有無、指揮系統の混乱などが挙げられています。ただし、第5連隊の行軍計画や当日の判断については、今も研究者の間で議論が続いています。
物語になった遭難
史実この出来事は、1971年に新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』となり、1977年には映画『八甲田山』として公開されて大きな話題を呼びました。小説と映画は史実をもとにしたフィクションで、登場人物の名前や一部の出来事は変えられています(書籍の部屋)。
ここを見る:馬立場の銅像と幸畑墓苑
八甲田山の馬立場には、後藤伍長をかたどった「雪中行軍遭難記念像」が立ち、遭難の現場を見守っています。青森市郊外の幸畑墓苑(旧陸軍墓地)には、亡くなった兵士たちの墓標が整然と並び、隣の八甲田山雪中行軍遭難資料館で当時の記録を見ることができます。


主な参考資料:八甲田山雪中行軍遭難資料館/青森市「幸畑墓苑」/気象庁「歴代全国ランキング(最低気温)」/陸軍省『遭難始末』