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05 — FERRIES

青函連絡船

本州の北の端・青森と、北海道の玄関・函館。この二つの港を、80年にわたって結び続けた船がありました。列車ごと船に積み込み、人と荷物を海の向こうへ運んだ青函連絡船。その歴史には、日本の海の事故で最悪の悲劇も刻まれています。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

1908年、国の連絡船が就航

史実1908年3月、国が運航する蒸気タービン船「比羅夫丸」が、青森と函館の間で運航を始めました。所要時間は約4時間。これが青函連絡船の始まりです。上野からの夜行列車を降りた人々は、青森駅から桟橋を歩いて船に乗り換え、津軽海峡を渡りました。

史実1925年からは、貨車をそのまま船の中に積み込む車両航送が始まります。船の後部に線路が敷かれ、岸壁の可動橋から貨車を押し込むのです。北海道の石炭や農産物、本州の工業製品が、積み替えなしで海を渡るようになりました。

80年運航期間(1908〜1988年)
約1億6千万人80年間に運んだ旅客の数(とされる)
1,155人洞爺丸事故の死者・行方不明者

空襲と、洞爺丸台風

史実1945年7月14日と15日、青森と函館の港や海峡にいた連絡船が、アメリカ軍の艦載機の攻撃を受けました。ほとんどの船が沈没したり大きく損傷したりして、乗組員など多くの人が犠牲になり、連絡船は一時ほぼ動かなくなりました。

史実1954年9月26日、強い台風第15号が北海道に近づく中、函館を出港した洞爺丸は、港の外で猛烈な風と高波に襲われ、転覆・沈没しました。洞爺丸だけで死者・行方不明者は1,155人。この夜、ほかの連絡船4隻も沈み、合わせて1,430人が犠牲になりました。日本の海難事故で最悪の惨事です。この台風は「洞爺丸台風」と呼ばれています。

史実この事故をきっかけに、海の下にトンネルを掘って本州と北海道を結ぶ計画が、本格的に動き出しました(トンネルの部屋)。

最後の日

史実1988年3月13日、青函トンネルの開業とともに、青函連絡船は80年の歴史を閉じました。最終日の青森発の最終便となったのが八甲田丸です。

史実1977年に発表された石川さゆりの歌『津軽海峡・冬景色』は、上野から夜行列車で青森に着き、連絡船に乗る人の姿を歌ったもので、連絡船の時代を象徴する歌になりました。

ここを見る:八甲田丸の車両甲板

青森駅のすぐそばに係留されている八甲田丸は、メモリアルシップとして公開されています。見どころは船の底に近い車両甲板。線路の上に、実際に運ばれた国鉄の車両が並んでいます。エンジン室も見学でき、船がまるごと博物館です。函館側では、摩周丸が同じように保存されています。

八甲田丸
八甲田丸青森市柳川
八甲田丸の車両甲板
車両甲板八甲田丸の船内

主な参考資料:青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸/函館市青函連絡船記念館摩周丸/運輸省「洞爺丸台風海難誌」/青森市史

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