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12 — SHIMOKITA
下北と恐山
本州の北東の端に突き出た、まさかりの形をした下北半島。硫黄のにおいが漂う霊場・恐山、戊辰戦争に敗れて遠く会津から移り住んだ人々の苦難、本州最北端の岬、寒さに耐える馬。青森の中でも、とりわけ遠く、深い土地の物語です。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
恐山 ― 死者が集まる山
伝承恐山は、862年に慈覚大師・円仁が開いたと伝えられる霊場です。比叡山・高野山と並ぶ「日本三大霊場」の一つに数えられ、「人は死ねばお山(恐山)へ行く」と言い伝えられてきました。
史実恐山は火山で、カルデラ湖の宇曽利山湖(うそりやまこ)のほとりには、硫黄の噴気があちこちから立ちのぼる荒涼とした岩場が広がります。ここは地獄に見立てられ、白い砂の湖岸は「極楽浜」と呼ばれています。岩のあいだには、亡くなった人をしのんで積まれた石や、風に回る風車が並びます。
史実夏の例大祭(7月20日〜24日)などには、死者の霊を呼び寄せてその言葉を語る「口寄せ」を行うイタコが訪れます。イタコは、主に目の不自由な女性が厳しい修行を経てなる、東北地方の民間の巫女です。今では、その数はごくわずかになりました。
斗南藩 ― 会津から来た人々
史実1868年の戊辰戦争で新政府軍に敗れた会津藩は、領地を取り上げられました。翌年、家の再興が許されたものの、新しい領地として与えられたのは、下北半島を中心とする土地でした。こうして生まれたのが斗南(となみ)藩です。
史実1870年、藩士とその家族、約1万7千人ともいわれる人々が、海路や陸路でこの地に移り住みました。しかし、火山灰の土地は作物がほとんど育たず、冬の寒さは厳しく、人々は飢えと寒さに苦しみます。翌1871年の廃藩置県で斗南藩はなくなり、多くの人が会津や各地へ去っていきました。
史実少年時代に斗南で暮らした柴五郎は、のちに陸軍大将となり、その時の体験を遺書として書き残しました。この手記は『ある明治人の記録』として出版されています(書籍の部屋)。むつ市には、会津の人々が開いた町の跡や墓が残っています。
大間崎と仏ヶ浦、寒立馬
史実半島の北の先端・大間崎は、本州の最北端です。岬には「ここ本州最北端の地」の碑と、マグロの一本釣りのモニュメントが立ち、晴れた日には津軽海峡の向こうに北海道の函館の山並みが見えます(食の部屋)。
史実半島の西側の海岸には、白や緑がかった岩の柱が並ぶ仏ヶ浦があり、国の名勝・天然記念物に指定されています。東の端の尻屋崎では、冬の雪の中でも放牧されている「寒立馬(かんだちめ)」に出会えます。
ここを見る:半島の形
下北半島は、まさかり(斧)の形をしています。青森県の人に「むつ市はどこ?」と聞くと、手をまさかりの形にして、場所を指さして教えてくれることがあります。地図を見ると、なるほど納得の形です。


主な参考資料:恐山菩提寺/むつ市「斗南藩の歴史」/会津若松市/佐井村「仏ヶ浦」/東通村「寒立馬」