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03 — THE PORT
港町・青森の誕生
県庁所在地の青森市は、城下町ではありません。始まりは江戸時代の初め、陸奥湾に面した小さな漁村に開かれた港でした。北海道への玄関口として栄え、大火と空襲で二度焼け野原になり、そのたびに立ち上がってきた港町の歩みをたどります。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
善知鳥村に港を開く
史実1624年、弘前藩2代藩主の津軽信枚(のぶひら)は、陸奥湾に面した善知鳥(うとう)村に港を開くことを命じました。藩の米を江戸へ運ぶための港です。工事を任された森山弥七郎のもとで町づくりが進み、この地は「青森」と呼ばれるようになります。
有力説「青森」という名前は、港の近くに青々と木の茂った小高い森があり、海から来る船の目印になっていたことに由来する、というのが一般的な説です。
善知鳥という鳥
「善知鳥」とは、ウトウという海鳥のこと。善知鳥神社には、都を追われた善知鳥中納言安方がこの地に流れ着き、その霊が鳥になったという伝説が残る。能の「善知鳥」も、外ヶ浜の猟師とこの鳥の物語。
善知鳥神社は今も町の中心に
青森市の中心部にある善知鳥神社は、青森の町の発祥の地とされる。境内の池は、かつての入り江の名残といわれる。
県庁が来た、鉄道が来た
史実1871年、県庁が弘前から移され、青森は県の中心になりました(津軽と南部の部屋)。1891年には上野から青森までの鉄道(今の東北本線)が全線開通し、1908年には国の青函連絡船が就航します(連絡船の部屋)。東京から北海道へ向かう人と物は、すべて青森で列車から船に乗り換えるようになりました。
二度の焼け野原
史実冬の季節風が強い青森は、たびたび大火に見舞われました。なかでも1910年の大火では、市街地の大半が焼けています。
史実1945年7月14日と15日、青函連絡船がアメリカ軍の艦載機に攻撃され、多くの船が沈みました。そして7月28日の夜、青森市は大規模な空襲を受け、市街地の大部分が焼失、1,000人を超える人々が亡くなりました。現在の青森市街は、戦後の復興でつくられた町です。
ASPAMとベイブリッジ
史実1988年に青函トンネルが開業して連絡船が廃止されると、青森駅の北側に広がっていた港の施設は役目を終えました。その跡地には、三角形の観光物産館アスパム(1986年開館)、白い斜張橋の青森ベイブリッジ、ねぶたの家ワ・ラッセ(祭りの部屋)、保存された連絡船・八甲田丸が並び、ベイエリアとして生まれ変わりました。
ここを見る:アスパムの「A」
高さ76メートルのアスパムは、青森(Aomori)の頭文字「A」をかたどった三角形の建物です。ベイブリッジの主塔も、横から見ると「A」の形。港のあちこちに、青森の「A」が隠れています。


主な参考資料:青森市「青森市の歴史」/青森市史/善知鳥神社/青森県観光物産館アスパム