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博多と福岡 ふたつの名の町

飛行機で降りるのは「福岡空港」、新幹線で着くのは「博多駅」。同じ町なのに、なぜ名前がふたつあるのでしょう。答えは、一本の川をはさんで向かい合った、商人の町と武士の町の400年の歴史にあります。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

川の東が博多、西が福岡

史実今の福岡市の中心部を南から北へ流れ、博多湾に注ぐのが那珂川です。江戸時代、この川の東側が商人の町「博多」、西側が福岡藩の城下町「福岡」でした。博多は古代から大陸との交易で栄えた港町で、福岡は1600年に筑前国に入った黒田長政が新しく城を築いてできた武士の町です。

史実「福岡」という地名は、黒田家ゆかりの備前国邑久郡福岡(今の岡山県瀬戸内市長船町福岡)からとったものです。城を築いた丘はもともと「福崎」と呼ばれていましたが、長政がこれを福岡と改めました(黒田官兵衛・長政の部屋)。

史実那珂川と博多川に挟まれた中洲は、ふたつの町をつなぐ場所でした。福岡側と博多側は中洲を通る橋で結ばれ、今の歓楽街・中洲の土台になっています(中洲と屋台の部屋)。

1601年福岡城の築城開始。「福岡」の名が生まれる
1889年市制施行。市の名前は「福岡市」に
約139万人終戦後、博多港に引き揚げてきた人の数

市の名前をめぐる議会

史実1889年(明治22年)、市制が施行され、福岡と博多は合わせてひとつの市になりました。市の名前は「福岡市」。人口でも経済でも博多の方が大きかったため、博多の人々には不満が残りました。

有力説翌1890年、市会に「博多市」への改称案が出されました。採決は賛否同数となり、議長の判断で否決されたと伝えられます。この話は今も「博多と福岡」の対抗意識を語るときによく持ち出されます。

史実一方、1889年12月に九州鉄道が開業させた駅は、博多側に置かれて「博多駅」と名づけられました。市の名は福岡、玄関の駅の名は博多。この取り合わせは今も変わらず、博多港、博多区、博多祇園山笠と、「博多」の名はいまも町のあちこちに生きています。

ここを見る:博多区と中央区の境目

福岡市の区の名前を見ると、旧博多部は「博多区」、旧福岡城下は「中央区」です。天神から中洲を通って博多へ歩くと、那珂川を渡ったところで町の名前の付き方が変わることに気づきます。博多側には「冷泉」「御供所」「呉服町」のように、港や寺社、町割りに由来する古い町名が多く残っています。

「博多っ子」と「福岡の人」

史実江戸時代の博多は、町人が自分たちで町を治める自治の伝統が強い町でした。町は「流(ながれ)」と呼ばれる単位に分かれ、この単位が今も博多祇園山笠の組織として生きています(山笠の部屋)。

有力説本来の「博多っ子」は、旧博多部に生まれ育った人を指す言葉だとされます。福岡市全体の人を指して使われることも多くなりましたが、山笠の季節になると、旧博多部の人々の「博多」へのこだわりが今もはっきり見えます(博多弁の部屋)。

那珂川と中洲
那珂川と中洲福岡市中央区・博多区
博多駅
博多駅福岡市博多区

引揚げの港・博多

史実1945年8月の終戦後、博多港は海外からの引揚げの拠点となりました。1947年までに、中国大陸や朝鮮半島などから約139万人がこの港に上陸しました。同時に、日本から朝鮮半島などへ帰る人々も、この港から船に乗りました。

史実ベイサイドプレイス博多の近く、博多港の中央ふ頭には、引揚げの歴史を伝える記念碑「那の津往還」が建っています。1945年6月の福岡大空襲で焼けた町は、戦後、この港とともに復興していきました。

主な参考資料:福岡市史/福岡市博物館「博多と福岡」関連展示資料/福岡市「福岡市の歴史」/『黒田家譜』/福岡市「博多港引揚げ」資料

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