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黒田官兵衛と黒田長政

福岡の町をつくったのは、播磨(兵庫県)からやってきた一族でした。豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師・黒田官兵衛と、その子で福岡藩の初代藩主となった黒田長政。二人の生き方は、今も福岡の歌や祭りや地名に残っています。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

秀吉の軍師・官兵衛

史実黒田官兵衛(孝高、1546〜1604年)は、播磨の小寺氏の家臣の家に生まれました。織田信長の力を見抜いて主家を織田方につけ、羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めで参謀として活躍します。

史実1578年、信長に背いた荒木村重を説得しに有岡城(兵庫県伊丹市)へ乗り込んだ官兵衛は、そのまま捕らえられ、約1年間、土牢に閉じ込められました。救い出されたときには、足が不自由になっていたと伝えられます。それでも官兵衛は秀吉のもとで働き続け、本能寺の変の後の「中国大返し」や九州平定にも関わりました。

史実官兵衛はキリスト教の洗礼を受け、「シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもありました。のちに出家して「如水」と号します。

約52万石関ヶ原の功で長政が得た筑前国の石高
約1年官兵衛が有岡城に幽閉された期間
約3.2m名槍「日本号」の全長(穂先は約79cm)

関ヶ原の裏で

史実1600年の関ヶ原の戦いで、子の黒田長政(1568〜1623年)は徳川家康の東軍につき、小早川秀秋らを東軍に引き込む調略で大きな功を立てました。その功績で筑前国約52万石を与えられ、福岡藩の初代藩主になります。

史実同じころ、隠居していた如水は、中津(大分県)で浪人や農民を集めて急ごしらえの軍勢をつくり、九州の西軍方の城を次々に攻め落としました。

伝承関ヶ原の戦いが長引けば、如水はその勢いで天下を狙うつもりだった、という話が後世に語られていますが、真意ははっきりしません。

伝承長政が関ヶ原の功で家康に右手を取って感謝されたと父に話すと、如水は「そのとき、お前の左手は何をしていたのか」と言った――左手で家康を刺す機会があったのに、という意味だとする逸話が伝わっています。

福岡城跡と黒田家ゆかりの地
福岡城跡と黒田家ゆかりの地福岡市中央区城内
母里太兵衛の像
母里太兵衛の像福岡市博多区博多駅前

「日本号」と黒田節

伝承長政の家臣・母里太兵衛は大酒飲みとして知られていました。長政の使いで福島正則の屋敷を訪れたとき、大杯の酒を飲み干したら望みの物をやると言われ、見事に飲み干して、正則が秀吉から拝領した名槍「日本号」をもらい受けた、と伝えられます。

史実この話は、福岡の民謡「黒田節」に歌われ、全国に知られるようになりました。黒田節は、もともと福岡藩士が歌っていた今様(筑前今様)がもとになっており、昭和初期に広く歌われるようになりました。日本号の実物は、福岡市博物館に収蔵されています。

史実博多駅の博多口の前には、大杯と槍を手にした母里太兵衛の像が立っています。福岡の人にとっては、待ち合わせの目印としてもおなじみです。

ここを見る:福岡市博物館の「日本号」

早良区百道浜の福岡市博物館には、国宝の金印とともに、名槍「日本号」や黒田家ゆかりの品々が収蔵されています。穂先に刻まれた倶利伽羅龍の彫り物は見ものです。展示替えがあるので、見学の前に展示予定を確認しましょう(金印の部屋)。

主な参考資料:福岡市博物館「黒田家」関連展示資料/『黒田家譜』/福岡市博物館所蔵「名槍日本号」解説/福岡県「黒田節」解説

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