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国際都市・博多
博多は、日本でいちばん長く外国に開かれてきた港町のひとつです。平安時代の終わりには中国・宋の商人が住みつき、中世には日本と大陸を結ぶ貿易の中心になりました。戦国時代に焼け野原になった町を立て直したのは、豊臣秀吉と博多の商人たちでした。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
宋の商人が住んだ町
史実11世紀後半、鴻臚館での交易が終わるころから、中国・宋の商人たちが博多の浜辺に住みつくようになりました。彼らは「博多綱首(ごうしゅ)」と呼ばれ、日本の寺社や貴族と結びついて貿易船を仕立てました。中国人が集まって住む一角は「大唐街」と呼ばれたと記録されています。
史実博多の地下に広がる「博多遺跡群」の発掘では、中国製の陶磁器が大量に見つかっています。宋や元の白磁・青磁の破片が、まとめて捨てられた状態で何万点も出てくる場所もあり、当時の博多がどれほど大きな貿易港だったかを物語っています。
史実宋の商人の中でも名高いのが謝国明です。博多に住んで日本人の妻をめとり、聖一国師(円爾)が承天寺を開く際に大きな支援をしました(承天寺の部屋)。
勘合貿易と、焼け野原の博多
史実室町時代、明との勘合貿易では、博多の商人が大内氏と結び、堺の商人と競い合いました。朝鮮王朝や琉球とも盛んに取引し、博多は東アジアの海の結び目になりました。
史実しかし戦国時代になると、豊かな博多は周辺の大名が奪い合う的になります。大友氏・毛利氏・龍造寺氏・島津氏の争いの中で、博多は何度も戦火に焼かれ、1580年代には町の多くが焼け野原になっていました。


秀吉の「太閤町割り」
史実1587年、九州を平定した豊臣秀吉は、筥崎(今の筥崎宮のあたり)に陣を置き、焼けた博多の復興を命じました。これが「太閤町割り」です。町は碁盤の目のように区画され、通りに沿って町家が並ぶ形に整えられました。
史実この町割りでできた町のまとまりが「流(ながれ)」です。流は町の自治の単位となり、今も博多祇園山笠の組織として受け継がれています(山笠の部屋)。
史実復興を支えたのが、博多の豪商神屋宗湛と島井宗室です。二人は茶の湯を通じて秀吉や千利休と親しく、宗湛は秀吉の茶会の様子などを『宗湛日記』に書き残しました。宗室は朝鮮や中国との交易で財を成した商人で、のちに子孫に向けて商人の心得を説いた遺訓を残しています。
ここを見る:御供所町の寺町
博多駅から北へ歩くと、承天寺・東長寺・聖福寺などの寺が集まる御供所町(ごくしょまち)に入ります。この寺町は、博多の町の東の守りとして、寺を並べて配置したものとされます。2014年には承天寺の前に、木造の門「博多千年門」が建てられました。寺の塀が続く静かな通りは、ビル街のすぐそばとは思えない雰囲気です。
主な参考資料:福岡市博物館「中世の博多」展示資料/福岡市埋蔵文化財センター「博多遺跡群」調査報告/承天寺公式情報/『宗湛日記』/福岡市「太閤町割り」解説