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福岡城と大濠公園
天神から西へ歩いて15分。石垣の上に桜が咲き、その西には周囲2kmの大きな池が広がります。福岡城の跡地「舞鶴公園」と、城の外堀だった「大濠公園」です。この巨大な城には、ひとつ大きな謎が残っています。天守閣は、本当にあったのでしょうか。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
黒田長政の巨城
史実1600年の関ヶ原の戦いの功績で筑前国を与えられた黒田長政は、はじめ名島城(東区)に入りましたが、手狭で城下町を広げにくかったため、1601年から博多の西の丘「福崎」に新しい城を築き始めました。7年がかりで完成した城は、丘の地形を生かした平山城で、47もの櫓が並ぶ九州有数の大きな城でした。
史実長政はこの地を、黒田家ゆかりの備前国福岡(岡山県瀬戸内市)にちなんで「福岡」と名づけました。城は優雅な姿から「舞鶴城」とも呼ばれ、跡地は今「舞鶴公園」になっています(黒田官兵衛・長政の部屋)。
天守は、あったのか
史実福岡城の本丸には、大きな天守台の石垣が残っています。しかし、福岡藩の記録や江戸時代の絵図には天守の姿がなく、長い間「天守台はつくったが天守は建てなかった」と考えられてきました。
有力説ところが近年、豊前小倉藩の細川忠興が1620年に書いた手紙の中に、黒田長政が「天守をお壊しになるそうだ」という一文が見つかりました。ここから、一度は天守が建てられたが、徳川幕府に遠慮して早い時期に取り壊したのではないか、という説が出ています。天守台の礎石は今も地表に見ることができます。2025年に初めて行われた天守台の発掘調査では、礎石の下に厚い根石が据えられていたことがわかり、大きな建物を支える基礎だった可能性が指摘されました。長政が天守の柱立てを命じたとみられる書状も紹介されていますが、天守の存在を決める証拠にはまだなっておらず、議論は続いています。
史実城の建物のうち、南西の隅にある多聞櫓は江戸時代から残るもので、国の重要文化財です。下之橋御門や祈念櫓なども、復元や移築を経て城内に残っています。寺院に移されていた潮見櫓も元の場所に移築・復元され、2025年から公開されています。


入り江を堀にした大濠
史実福岡城の西には、博多湾から入り込んだ「草ヶ江」という入り江がありました。長政はこれを埋め立てずに城の外堀として利用しました。これが今の大濠です。
史実昭和の初め、大濠の一部を埋め立てて1927年に「東亜勧業博覧会」が開かれ、その跡地を整えて1929年に県営の大濠公園が開園しました。池の中に島と橋を配した造りは、中国・杭州の西湖を参考にしたとされます。周囲約2kmの池のまわりは、今ではジョギングや散歩をする市民でにぎわいます。
史実城跡の一角には、戦後、プロ野球・西鉄ライオンズの本拠地だった平和台球場がありました。その下から古代の迎賓館・鴻臚館の遺構が見つかったことは、福岡の考古学の大きな発見でした(鴻臚館の部屋)。
ここを見る:天守台からの眺め
本丸の天守台には階段で上ることができ、天神のビル群や博多湾、大濠公園を見渡せます(2026年は発掘調査のため、5月から12月末〔予定〕まで天守台に立ち入れません。最新の情報は福岡市の発表で確認してください)。春の「福岡城さくらまつり」の時期には、石垣と約1000本の桜がライトアップされます。石垣をよく見ると、石に刻まれた印(刻印)が見つかることがあります。築城の際、石を運んだ家臣ごとの目印だったと考えられています。
主な参考資料:福岡市「福岡城跡」解説/国指定文化財等データベース「福岡城跡」「福岡城多聞櫓」/福岡市博物館資料/福岡県「県営大濠公園」案内/『黒田家譜』