トップ / 元寇と元寇防塁
元寇と元寇防塁
13世紀、ユーラシア大陸の大半を支配したモンゴル帝国が、二度にわたって日本に攻めてきました。上陸の舞台となったのは博多湾です。その海岸には、二度目の襲来に備えて武士たちが築いた石の壁が、740年以上たった今も残っています。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
文永の役(1274年)
史実モンゴル帝国の皇帝フビライ・ハンは、国号を元と改めた前後から、日本に何度も使いを送り、服属を求めました。鎌倉幕府の執権・北条時宗はこれに応じませんでした。
史実文永11年(1274年)10月、元と高麗の連合軍およそ3万人が、対馬・壱岐を襲ったのち博多湾に攻め寄せました。博多の西の今津や百道原、赤坂などで激しい戦いとなり、集団戦法や「てつはう」と呼ばれる火薬兵器に、一騎打ちに慣れた武士たちは苦しみました。博多の町や筥崎宮も焼かれたと伝わります。
有力説ところが連合軍は、上陸の翌朝には博多湾から姿を消していました。かつては「暴風雨(神風)で船が沈んだ」と説明されてきましたが、季節や記録から、もともと短期の威力偵察で撤退する予定だった、撤退の途中で嵐にあった、など今も複数の説があります。
石築地――海岸20kmの防塁
史実次の襲来に備えて、幕府は1276年、九州の御家人に命じて博多湾岸に石の防壁「石築地(いしついじ)」を築かせました。西の今津から東の香椎まで約20km。高さ・幅とも約2〜3mで、場所によって規模や造りが異なります。国ごとに担当区間を割り当て、土地の広さに応じて工事を負担させました。
史実この防塁は、近代になって「元寇防塁」と呼ばれるようになり、国の史跡に指定されています。海に向かう側は石を垂直に近く積んで切り立たせ、陸側には傾斜をつけて上り下りしやすくしていたことがわかっています。


弘安の役(1281年)
史実弘安4年(1281年)、元は朝鮮半島から出た東路軍と、中国南部から出た江南軍の二手で再び攻めてきました。東路軍は博多湾に入りましたが、石築地に阻まれて上陸できず、志賀島に陣取ります。武士たちは小舟で夜襲をかけ、志賀島や海の中道の周辺で激しい戦いが続きました。
史実やがて江南軍と合流した元の船団は肥前の鷹島(長崎県松浦市)周辺に集まりましたが、閏7月1日(今の暦で8月下旬)、大型の台風に襲われて多くの船が沈みました。鷹島の海底からは、元の軍船の船体や「てつはう」が見つかっています。
有力説この嵐が後に「神風」と呼ばれ、日本は神に守られた国だという考えの根拠とされていきます。寺社の祈祷の効果を強調した『八幡愚童訓』などの書物が、その物語を広めました。
竹崎季長の絵巻
史実肥後国(熊本県)の御家人竹崎季長は、自分の戦いぶりを絵巻物『蒙古襲来絵詞』に描かせました。文永の役で先駆けをして負傷した場面には、空中で炸裂する「てつはう」が描かれています。季長は恩賞を求めて鎌倉まで出向き、直談判で地頭職を得ました。命がけで戦っても恩賞が十分に出ないことへの不満は、のちに鎌倉幕府が揺らぐ一因になったとされます。
ここを見る:生の松原と西新の防塁
西区の生の松原では、松林の中に防塁が復元・保存され、海側の垂直な石積みを見ることができます。早良区西新の西南学院大学では、体育館の横に防塁が復元され、校舎の中でも発掘された遺構を移した展示が公開されています。博多湾の東、東公園には亀山上皇と日蓮の大きな銅像が立ち、隣の元寇史料館(見学は事前予約制)とあわせて元寇の記憶を伝えています(筥崎宮の部屋)。
主な参考資料:福岡市「元寇防塁」解説/国指定文化財等データベース「元寇防塁」/『蒙古襲来絵詞』(皇居三の丸尚蔵館)/『八幡愚童訓』/九州国立博物館・福岡市博物館展示資料