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02 — CHINA TOWN
唐人屋敷と長崎の中国
「鎖国の窓」と聞くと出島のオランダ人を思い浮かべがちです。けれど、江戸時代の長崎で暮らした外国人の多くは中国の人々でした。唐人屋敷、唐寺、くんちの龍踊り。長崎の文化の奥には、中国がいます。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
オランダ人より、はるかに多かった
江戸時代、長崎で貿易を許されたのはオランダと中国でした。出島のオランダ人がふだん十数人ほどだったのに対し、中国の船は多いときで年に数十隻もやって来て、乗組員や商人は数千人にのぼることもありました。
史実はじめ中国の人々は町中に住むことができましたが、密貿易を防ぐため、幕府は1689年、町の南の十善寺郷に唐人屋敷を完成させ、そこに住まわせることにしました。広さは約9,400坪。一度に2,000人前後を収容できたといいます。出島のおよそ2倍以上の広さです。
唐人屋敷は1859年の開港後にさびれ、1870年に焼失しました。いまの館内町には、土神堂・天后堂・観音堂などの建物や石垣が残り、当時の路地の雰囲気を伝えています。
ここを見る:天后堂の「媽祖」
天后堂には、航海の守り神・媽祖(まそ)がまつられています。中国の船は媽祖像を乗せて海を渡り、長崎に着くと像を唐寺や堂に預けました。台湾でも広く信仰される媽祖が、長崎の路地にもいるのです。
唐寺 ― 出身地ごとのお寺
史実江戸時代の初め、長崎に住む中国の人々は、出身地ごとにお寺を建てました。南京方面の人々の興福寺(1620年ごろ)、福建省泉州・漳州方面の福済寺、福州方面の崇福寺(1629年)で、「長崎三福寺」と呼ばれます。崇福寺の第一峰門や大雄宝殿は国宝に指定されています。
興福寺の住職だった黙子如定は、1634年に中島川に石造りのアーチ橋を架けました。これが今も残る眼鏡橋です。中国の技術が、長崎の町並みそのものをつくったのです。
くんちの龍踊り、ランタンの冬
史実毎年10月の長崎くんちでは、町ごとに奉納踊り(出し物)が披露されます。なかでも有名な龍踊り(じゃおどり)は、唐人屋敷のあった地域に伝わるもので、中国の人々が伝えた踊りがもとになっています。
史実冬の長崎ランタンフェスティバルは、もともと新地中華街の人々が旧正月(春節)を祝う行事でした。1994年から規模を広げて今の形になり、約1万5千個ともいわれるランタンが町を彩る、冬の長崎の風物詩になっています。


バタフライエフェクト:閉じ込めたら、中華街が生まれた
唐人屋敷に人を集めたことで、中国船の荷物を保管する倉庫が海沿いに必要になりました。1702年、そのために埋め立てて造られたのが「新地蔵所」。開港後、ここに中国の人々が移り住んだのが、いまの長崎新地中華街の始まりです。
主な参考資料:長崎市「唐人屋敷の歴史」/長崎市「長崎ランタンフェスティバル」/崇福寺・興福寺の由緒