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05 — DUTCH LEARNING

蘭学と長崎遊学

江戸時代の後半、医学や天文学を本気で学びたい若者は、長崎を目指しました。出島の医師シーボルトの塾、その娘で西洋医学を学んだ楠本イネ、海軍伝習所、日本初の西洋式病院。長崎は、日本の「教室」でした。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

「長崎遊学」という言葉

オランダ語の本を通じて西洋の学問を学ぶことを蘭学と言います。本は江戸でも読めましたが、オランダ人の医師に直接学び、実物の器具や薬に触れられるのは長崎だけでした。全国から医師や学者を志す若者が長崎に集まり、これを「長崎遊学」と呼びました。

その橋渡しをしたのが、オランダ語の通訳である通詞たちです。彼らは貿易の通訳であると同時に、辞書を編み、医学書や天文学書を翻訳する学者でもありました。

シーボルトと鳴滝塾

史実1823年、出島のオランダ商館医として、ドイツ人のシーボルトが来日します。翌1824年、長崎郊外の鳴滝に鳴滝塾を開き、診療をしながら日本各地から集まった弟子たちに医学や博物学を教えました。塾生からは、のちに蘭学や医学の分野で活躍する人物が多く出ています。

史実しかし1828年、帰国しようとしたシーボルトの荷物から、国外への持ち出しが禁じられていた日本地図などが見つかります(シーボルト事件)。シーボルトは国外追放となり、地図を渡した幕府の役人をはじめ多くの関係者が処罰されました。

1823シーボルト来日
1824鳴滝塾を開く
1828シーボルト事件

楠本イネ ― 西洋医学を学んだ女性医師

史実シーボルトと、長崎の女性楠本滝(お滝)とのあいだに生まれた娘が楠本イネです。父が日本を去ったとき、イネはまだ2歳でした。成長したイネは、父の弟子たちのもとで産科などの医学を学び、日本で初めて西洋医学を学んだ女性医師として知られるようになります。のちには東京で開業し、宮中の出産にも関わったと伝えられます。

イネの生涯は、吉村昭の小説『ふぉん・しいほるとの娘』に描かれています(関連書籍)。

海軍伝習所と養生所

史実幕末、長崎はさらに大きな「学校」になります。1855年、幕府はオランダの協力で長崎海軍伝習所を開き、軍艦の操縦や造船、測量などを学ばせました。伝習生には勝海舟や榎本武揚らがいます。

史実1857年からは、オランダ海軍の軍医ポンペが医学を教え、1861年には養生所が開かれました。日本で最初の西洋式の近代病院とされ、その流れは現在の長崎大学医学部へとつながっています。

ここを見る:シーボルト記念館と鳴滝塾跡

鳴滝塾の跡地は国の史跡となっており、隣にはシーボルト記念館があります。記念館の建物は、オランダの商人屋敷を思わせるデザイン。坂の途中にある塾跡に立つと、全国から若者がこの谷に通ってきた光景が浮かびます。

シーボルト記念館
シーボルト記念館鳴滝
長崎大学医学部の歴史的建物
養生所から続く医学の地坂本

バタフライエフェクト:小さな島から、全国の医療へ

出島の医師は、ふだん一人か二人。その一人のもとに全国から若者が集まり、学んだ知識を故郷に持ち帰りました。種痘(天然痘の予防接種)が日本に広まるきっかけの一つも、長崎に届いた牛痘の苗でした。出島の一人の医師が、日本の医学の地図を塗り替えたのです。

主な参考資料:長崎市「シーボルト記念館」/長崎大学医学部「医学部の歴史」/長崎県「長崎遊学」関連資料

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