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01 — DEJIMA

出島 ― 扇形の人工島

面積およそ1.5ヘクタール。サッカー場2面ほどの扇形の島に、218年ものあいだ、ヨーロッパがありました。もともとはオランダ人のためではなく、ポルトガル人を閉じ込めるために造られた島です。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

ポルトガル人のための島

史実出島は1634年から築造が始まり、1636年に完成した人工の島です。目的は、町に散らばって住んでいたポルトガル人を一か所に集め、キリスト教の布教を防ぐことでした。建設費は、長崎の有力な町人たちが出しました。彼らは「出島町人」と呼ばれ、完成後はポルトガル人から土地の使用料を受け取りました。

ところが、完成からわずか3年後の1639年、幕府はポルトガル船の来航を禁止します。出島は空っぽになってしまいました。

史実そこで1641年、平戸にあったオランダ商館が出島へ移されます。以後、1859年に開港して自由貿易が始まるまで、ヨーロッパとの貿易の窓口はこの小さな島だけになりました。

約1.5ha出島の面積(3,969坪)。サッカー場2面ほど
1636出島完成。当初の住人はポルトガル人
218年オランダ商館が置かれた期間(1641〜1859)

島の暮らし

出島に住むオランダ人は、商館長(カピタン)、医師、書記など、ふだんは十数人ほどでした。島と町を結ぶのは一本の橋だけで、出入りは厳しく管理されました。オランダ人が自由に町へ出ることはできず、日本人も役人や通詞(通訳)、商人、そして許可を得た人しか島に入れませんでした。

それでも島の中では、ビリヤードを楽しみ、牛や豚を飼い、西洋野菜を育てていたことが記録や絵から分かっています。有力説日本で初めてビリヤードやバドミントンのような遊びが行われたのは出島だった、とも言われます。

ここを見る:カピタン部屋と、ミニ出島

復元された出島には、商館長の住まいだった「カピタン部屋」などの建物が並びます。島の中央付近にある「ミニ出島」は、19世紀初めごろの出島を15分の1で再現した模型。扇形の島の全体像と、橋一本でつながっていた様子がひと目で分かります。

「オランダ風説書」― 世界のニュースの入口

史実オランダ船が入港するたびに、商館長は海外のできごとをまとめた報告書を幕府に提出しました。これが「オランダ風説書」です。鎖国といわれる時代にも、幕府はこの報告を通じてヨーロッパやアジアの情勢をつかんでいました。アヘン戦争の情報も、ペリー来航の予告も、出島を経由して江戸に届いています。

陸に埋もれた島、よみがえる島

史実開港後、出島はその役目を終えます。明治時代の港の改修工事で周囲が埋め立てられ、出島は陸続きになり、扇形の輪郭も町の中に埋もれてしまいました。

長崎市は1951年から出島の復元に取り組み、1996年からは本格的な復元整備を進めています。2017年には、かつてのように島と対岸を結ぶ表門橋が約130年ぶりに架けられました。いつか出島を再び水に囲まれた島に戻すことが、長い計画の目標になっています。

復元された出島の町並み
出島出島町
出島表門橋
表門橋出島町
伝承

「扇を広げて形を決めた」

将軍に島の形を尋ねられた役人が、扇を広げて見せたという話が伝わる。広く知られた話だが、確かな記録はない(伝説の部屋へ)。

有力説

地形に合わせた形

海岸線や潮の流れに沿って、限られた場所に効率よく土地を造った結果、扇のような形になったとする見方が一般的。

主な参考資料:長崎市「出島」公式サイト/長崎市出島復元整備室の資料/長崎税関「歴史探訪 出島跡」

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