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坂と入り江の港町

長崎の町は、平らな土地がほとんどない細長い入り江にあります。人が住むには厳しい土地が、なぜ日本でいちばん世界に近い港になったのか。1571年の開港から、坂と埋め立ての歴史をたどります。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

船にとっての理想、人にとっての難所

長崎港は、外海から北東へ細長く入り込んだ入り江です。入口が狭いので外海の波が入りにくく、奥まで水深があります。大きな帆船が岸の近くまで安全に入れる、天然の良港でした。

一方で、港のまわりはすぐに山の斜面です。港の東側には風頭山、西側には稲佐山がそびえ、平らな土地は川の河口にわずかにあるだけでした。長崎の家々が斜面を段々に上っていくのは、ここに理由があります。

ここを見る:「斜面の町」の階段

市内の住宅地には、車が入れない細い石段がいたるところにあります。荷物を運ぶ人や郵便配達のバイクが階段を上り下りする光景は、長崎ではごく日常のもの。斜面に広がる夜の明かりが、稲佐山から見る夜景をつくっています。

1571年、岬の上に町ができた

史実16世紀半ば、ポルトガル船は平戸や横瀬浦、福田などに来航していました。そして1571年(元亀2年)、キリシタン大名の大村純忠のもとで長崎が開港し、ポルトガル船が入港します。港に突き出た岬の上には、新しく6つの町がつくられました。今の県庁のあたりが、その岬の先端にあたります。

史実1580年、大村純忠は長崎と茂木をイエズス会に寄進します。日本の土地が、外国の修道会の管理下に置かれるという異例のできごとでした。のちに豊臣秀吉はこれを取り上げ、長崎を直轄地とします。以後、長崎は江戸時代を通じて幕府の直轄地(天領)として、長崎奉行が治める町になりました。

1571長崎開港。岬の上に6つの町ができる
1580大村純忠がイエズス会に寄進
1588豊臣秀吉が直轄地に

「長崎」という名前

有力説「長崎」の地名の由来には、いくつかの説があります。この地を治めていた長崎氏(長崎甚左衛門純景など)の名によるという説、そして長い岬という地形そのものに由来するという説です。長崎氏の名自体が地形から来ているとも考えられ、どちらが先かははっきりしていません。

海を埋めて広がった町

平地が足りない長崎では、江戸時代から海の埋め立てが続けられてきました。出島も、そのはじまりの一つです。明治以降も港湾工事で埋め立てが進み、かつて海に浮かんでいた出島は、今では町の中にすっかり取り込まれています。

バタフライエフェクト:平地がないから、世界とつながった

平地が少なく大きな城下町を築けない入り江は、戦国大名にとっては魅力に乏しい土地でした。だからこそ、港としての価値だけを求めたポルトガル人とキリシタン大名が手を結ぶ余地があったとも言えます。住みにくい地形が、世界に開かれた港を生んだのです。

稲佐山から見た長崎港
長崎港稲佐山
長崎の坂道と石段
坂の町市内

主な参考資料:長崎市「長崎市の歴史」/長崎県「長崎県の歴史」/『長崎県の歴史』(山川出版社)

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