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08 — 9 AUGUST 1945
1945年8月9日
午前11時2分、原子爆弾が浦上の上空で炸裂しました。この日の第一目標は、長崎ではありませんでした。何が起き、町はそこからどう歩んできたのか。数字と場所をたどりながら、記録に沿って振り返ります。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
第一目標は小倉だった
史実1945年8月9日、原子爆弾を積んだアメリカのB-29は、最初に福岡県の小倉を目指しました。しかし小倉の上空は、前日の空襲の煙や靄で視界が悪く、目視での投下ができませんでした。燃料の残りも少なくなるなか、爆撃機は第二目標の長崎へ向かいます。
史実長崎の上空も雲が多い状態でしたが、雲の切れ間から投下が行われ、原子爆弾は午前11時2分、市の中心部から北へ約3キロ離れた浦上地区の上空約500メートルで炸裂しました。
浦上 ― 信仰の地の上で
史実爆心地の近くの浦上は、潜伏キリシタンの信仰を守り抜いた人々が多く暮らした地域でした(潜伏キリシタンの部屋)。信徒たちが長い年月をかけて建てた浦上天主堂は崩れ落ち、中にいた司祭や信徒は亡くなりました。
長崎医科大学(現・長崎大学医学部)も爆心地の近くにあり、多くの教職員や学生が犠牲になりました。自らも被爆しながら救護にあたった医師・永井隆は、その体験を『長崎の鐘』などに書き残しています(関連書籍)。
ここを見る:山王神社の一本柱鳥居と被爆クスノキ
爆心地から南東へ約800メートルの山王神社には、爆風で片方の柱が吹き飛ばされ、一本の柱だけで立ち続ける鳥居が残っています。境内の大きなクスノキも、焼けて枯れたと思われたあと、再び芽吹きました。
祈りの町として
史実爆心地の近くには平和公園が整えられ、1955年、彫刻家・北村西望による平和祈念像が完成しました。天を指す右手は原爆の脅威を、水平にのばした左手は平和を表すとされます。毎年8月9日には平和祈念式典が開かれ、午前11時2分、町は黙とうに包まれます。
「長崎を最後の被爆地に」
長崎では、この言葉が繰り返し語られてきました。被爆した人々の証言、残された建物や木々、そして毎年の祈り。広島とともに、核兵器の被害を受けた都市として、長崎は記憶を次の世代へつなぐ場所であり続けています。


主な参考資料:長崎市「ながさきの平和」/長崎原爆資料館/長崎市「原爆による被害」