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03 — 6 AUGUST 1945

1945年8月6日

午前8時15分、広島の上空で原子爆弾が炸裂しました。戦争で使われた、世界で最初の原子爆弾です。その朝、街で何が起き、どれだけの命が失われたのか。場所と数字をたどりながら、記録に沿って振り返ります。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

目標は、T字形の橋だった

史実1945年8月6日の朝、広島の空は晴れていました。アメリカのB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が投下したウラン型の原子爆弾は、午前8時15分、市の中心部の上空約600メートルで炸裂しました。

史実投下の目標とされたのは、太田川の本川と元安川の分かれ目に架かる相生橋でした。上空から見るとT字形をした珍しい橋で、目印にしやすかったためです。実際の炸裂地点は、そこから南東へ約300メートル、島病院の上空でした。

8:151945年8月6日、炸裂の時刻
約14万人1945年末までに亡くなったと推計される人数(誤差±1万人)
約600m炸裂した高さ

熱線、爆風、放射線

史実炸裂と同時に巨大な火の球が生まれ、爆心地の地面の温度は3,000〜4,000度に達したと推定されています。強い熱線と爆風で、爆心地から2キロ以内の建物のほとんどが壊れ、燃えました。さらに放射線が、生き延びた人々の体をその後も長く苦しめることになります。

史実当時の広島には、軍人を含めて約35万人がいたと考えられています。その朝、火災の広がりを防ぐために建物を取り壊す作業(建物疎開)には、多くの中学生や女学生が動員されていました。屋外で作業していた生徒たちの多くが、この日、命を落としています。

史実爆発のあと、市の北西部などには放射性物質を含む「黒い雨」が降りました。また、被爆者の中には、日本に暮らしていた朝鮮半島出身の人々や、捕虜となっていたアメリカ兵なども含まれていました。

ここを見る:原爆ドームと相生橋

原爆ドームは、1915年に広島県物産陳列館として建てられた建物です。爆心地から約160メートルの距離で被爆し、中にいた人は全員亡くなりましたが、壁の一部とドームの鉄骨が残りました。すぐ北の相生橋は、戦後に架け替えられた今も、上空から見るとT字形をしています。

禎子と千羽鶴

史実2歳で被爆した佐々木禎子さんは、10年後の1955年に白血病と診断されました。回復を願って薬の包み紙などで鶴を折り続けましたが、その年の10月に12歳で亡くなります。同級生たちの呼びかけで全国から募金が集まり、1958年、平和記念公園に「原爆の子の像」が建てられました。今も世界中から折り鶴が届けられています。

原爆ドーム
原爆ドーム中区大手町
相生橋
相生橋中区
原爆の子の像と折り鶴
原爆の子の像平和記念公園

「ヒロシマ」を伝え続ける

毎年8月6日、平和記念公園では平和記念式典が開かれ、午前8時15分に黙とうがささげられます。夜には元安川で、亡くなった人々を悼む灯籠流しが行われます。被爆した人々の証言は、平和記念資料館や語り部の活動を通じて受け継がれてきました。焼け野原からの歩みは、復興の部屋へ。

主な参考資料:広島平和記念資料館/広島市「原爆被害の概要」/国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

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