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00 — ORIGINS
三角州の城下町
広島の中心部を歩くと、何度も川を渡ることに気づきます。この街は、太田川が運んだ土砂でできた三角州の上にあります。1589年、戦国大名・毛利輝元は、なぜ海辺の低い土地に城を築いたのでしょうか。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
山の城から、海辺の城へ
史実毛利家はもともと、今の安芸高田市にある山城・吉田郡山城を本拠にしていました。毛利元就の代に中国地方の大半を治める大名となり、孫の毛利輝元は豊臣秀吉に従う大大名になります。
史実1589年、輝元は太田川の河口に広がる三角州で、新しい城の築城を始めました。山の上の城は守りには強いものの、大軍を養い、物や人を動かすには不便です。川と海の水運を押さえる平地の城へ。輝元は大坂城や聚楽第を見て、その必要を感じたといわれます。1591年、輝元は完成途中の城に入りました。
福島正則と「無断修理」
史実関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった輝元は、戦後、周防・長門(今の山口県)の2か国に減らされ、広島を去ります。代わって入ったのが、豊臣秀吉子飼いの武将福島正則でした。正則は城下町を整え、西国街道を城下に通すなど、町の骨格をつくります。
史実ところが1617年の洪水で城の石垣などが壊れ、正則はこれを修理しました。幕府は、届け出の手続きが不十分な無断の修理だとして、1619年に正則を処分し、領地を取り上げます。三角州の城は、水害と常に隣り合わせでした。
浅野家の250年
史実1619年、紀州和歌山から浅野長晟が入り、以後、明治維新まで約250年にわたって浅野家が広島藩を治めました。長晟の家老で茶人でもあった上田宗箇がつくったと伝えられる大名庭園が、今の縮景園です。
史実江戸時代の広島では、城下の南の干潟を次々と埋め立てる干拓が進みました。こうして生まれた新しい土地は「新開(しんがい)」と呼ばれ、農地や町になっていきます。今の広島市の南部の多くは、かつての海です。
ここを見る:「鯉城」の石垣と堀
広島城は「鯉城(りじょう)」とも呼ばれます。天守は1945年の原爆で倒壊し、1958年に外観を復元した鉄筋コンクリートの天守が建てられましたが、老朽化などのため2026年3月22日に閉じられました(外観は見学できます)。それでも、本丸の石垣と堀は築城当時の姿を多く残しています。石垣の石に刻まれた印にも注目してみてください。


「鯉城」の名は、どこから?
広島城がなぜ「鯉城」と呼ばれるのかには諸説あります。城のあたりが「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれていたから、堀に鯉が多くいたから、などです。はっきりした答えはありませんが、この名前は、のちに誕生する市民球団の名前「カープ(鯉)」につながっていきます(カープの部屋)。
主な参考資料:広島城「広島城の歴史」/広島市「広島城天守の閉城について」/縮景園/広島市公文書館