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05 — MIYAJIMA
宮島と厳島神社
潮が満ちると、朱色の社殿と大鳥居が海に浮かんで見えます。島そのものが神として敬われてきた宮島で、なぜ神社は海の上に建てられたのでしょうか。平清盛の夢から、戦国の合戦、島の独特な暮らしまでをたどります。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
島そのものが神
伝承厳島神社は、593年、この地の豪族・佐伯鞍職(さえきのくらもと)が社殿を建てたのが始まりと伝えられています。古くから宮島は、弥山(みせん)を中心とする島全体が神の宿る場所として敬われてきました。
有力説社殿が陸ではなく海の上、潮の満ち引きする浜に建てられたのは、神聖な島の土地を切り開くことをはばかったからだ、と考えられています。人々は船で海を渡り、大鳥居をくぐって参拝しました。
平清盛の社殿
史実今のような海上の社殿を整えたのは、平安時代の終わり、安芸守(あきのかみ)として瀬戸内海の航路を押さえた平清盛です。1168年ごろ、清盛は寝殿造の様式を取り入れた壮大な社殿を造営しました。平家一門は厳島神社を深く信仰し、1164年には一門の人々が経文を書き写して華やかに飾った「平家納経」を奉納しています。平家納経は国宝です。
ここを見る:大鳥居は「置いてあるだけ」
高さ約16メートルの大鳥居は、海底に埋め込まれているわけではありません。主柱には樹齢数百年のクスノキの自然木が使われ、上の笠木の中には石が詰められていて、鳥居自身の重さで立っています。今の大鳥居は1875年に建てられたもので、2019年から2022年にかけて大規模な修理が行われました。
厳島の戦い
史実1555年、宮島は戦国時代の大きな合戦の舞台になりました。安芸の毛利元就が、主家の大内氏を倒して実権を握った陶晴賢(すえはるかた)の大軍を、島へおびき寄せて打ち破ったのです(厳島の戦い)。この勝利をきっかけに、毛利家は中国地方の覇者へと成長していきます。のちに孫の輝元が広島に城を築くことになります(三角州の城下町の部屋)。
神の島の暮らし
有力説島全体が神聖な場所とされてきたため、宮島では古くから、死や出産にかかわる「けがれ」を島に持ち込まない習わしがあったといわれます。亡くなった人は対岸に葬られ、島には今も墓地がほとんどありません。
史実島の鹿は、神の使いとして大切にされてきました。宮島は1996年、厳島神社の社殿と前面の海、背後の弥山の原始林を含む範囲が、世界遺産に登録されています。また2023年10月からは、島を訪れる人から宮島訪問税(1人1回100円)が集められています。


弥山の「消えずの火」
宮島の最高峰・弥山には、平安時代の初めに空海(弘法大師)が修行したと伝えられる霊火堂があり、そのときから燃え続けていると伝えられる「消えずの火」が守られています。平和記念公園の「平和の灯」がともされた1964年、この火も種火の一つとして分けられました。1,200年の祈りの火が、平和の祈りに受け継がれているのです。
主な参考資料:厳島神社/廿日市市「宮島の歴史」「宮島訪問税」/広島県「厳島神社大鳥居保存修理」/大本山大聖院