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01 — MILITARY CITY

軍都・廣島

1894年の秋から翌年の春まで、広島には天皇がとどまり、戦争を指揮する大本営が置かれ、国会まで開かれました。鉄道と港がそろったこの街は、なぜ「軍都」と呼ばれるようになったのでしょうか。その戦争は、台湾の運命も変えることになります。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

港と鉄道がそろった

史実明治のはじめ、広島の港は遠浅で、大きな船が入れませんでした。広島県令(今の知事)の千田貞暁は、反対や資金不足に苦しみながら、南の宇品の沖を埋め立てて港を築きます。宇品港は1889年に完成しました。

史実1894年6月には山陽鉄道が広島まで開通します。当時はここが線路の西の端でした。東京や大阪から鉄道で兵士や物資を運び、宇品港から船で大陸へ送り出す。広島は、そのための条件がそろった街になったのです。

1894年、大本営が広島へ

史実1894年8月、日本と清のあいだで日清戦争が始まります。広島駅と宇品港を結ぶ軍用の線路(宇品線)が、わずか17日ほどで敷かれました。9月には、戦争を指揮する大本営が東京から広島城内に移され、明治天皇も広島に入ります。

史実10月には、戦争の予算を話し合う臨時の帝国議会が、広島につくられた仮の議事堂で開かれました。天皇が広島にとどまったのは翌年4月までの約7か月。この間、広島は「臨時の首都」ともいえる役割を担いました。

約17日広島駅と宇品港を結ぶ線路の建設期間
約7か月大本営が広島に置かれ、天皇がとどまった期間
1895下関条約で台湾と澎湖諸島が日本に割譲

広島から台湾へ

史実1895年4月に結ばれた下関条約によって、清は台湾と澎湖諸島を日本に譲ることになりました。こうして台湾では、50年にわたる日本の統治が始まります。広島に置かれた大本営で指揮された戦争が、台湾の人々の歴史を大きく変えたのです。

史実戦争が終わると、大陸から帰ってくる大勢の兵士が伝染病を持ち込まないよう、広島湾の似島(にのしま)などに検疫所がつくられました。この大がかりな検疫を実際に取り仕切ったのが、陸軍次官の児玉源太郎と、その下で働いた医師出身の官僚後藤新平です。二人はのちに、台湾総督と民政長官として台湾の統治にあたることになります。

ここを見る:旧広島陸軍被服支廠

広島市南区出汐には、軍服や靴をつくった陸軍の工場の倉庫が残っています。1913年に建てられた、国内でも古い時期の鉄筋コンクリート造の建物です。爆心地から約2.7キロにあり、原爆にも耐えて、被爆直後には臨時の救護所になりました。軍都の記憶と被爆の記憶を、同時に伝える建物です。

軍とともに大きくなった街

史実その後も広島には陸軍の第五師団が置かれ、宇品港は日露戦争から太平洋戦争まで、兵士を送り出す港であり続けました。陸軍の兵器や食料、衣服をつくる工場が並び、街は軍とともに大きくなっていきます。そして1945年、この「軍都」が、原子爆弾の目標の一つに選ばれることになります(1945年8月6日の部屋)。

旧広島陸軍被服支廠
旧陸軍被服支廠南区出汐
広島港(宇品)
広島港(宇品)南区宇品

千田貞暁と「千田町」

宇品港を築いた千田貞暁は、工事費が予定を大きく上回ったことで批判を受け、やがて広島を離れることになりました。のちに港は広島の発展に欠かせないものとなり、市内には彼の名にちなむ「千田町」の地名が残っています。宇品には千田の銅像も立てられています。

主な参考資料:広島市公文書館「大本営と広島」/広島県「旧広島陸軍被服支廠」/広島市郷土資料館/『広島県史』

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