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04 — REBIRTH

焼け野原からの復興

原爆のあと、広島は「75年は草木も生えぬ」といわれました。けれど、被爆から3日後には路面電車が走り、翌年の夏には焼け跡に花が咲きました。焼け野原が「平和記念都市」へと生まれ変わるまでの道のりをたどります。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

3日後に走った電車

史実広島の路面電車は、原爆で車両の多くが壊れ、運転士や車掌にも多くの犠牲者が出ました。それでも被爆から3日後の8月9日、己斐(こい)から西天満町までの区間で運転が再開されます。電車を動かしたのは、電鉄会社が運営する学校で学んでいた10代の女子生徒たちでもありました。

史実このとき被爆した電車のうち、651号・652号などは修理されて、今も広島の街を走ることがあります。焼け跡を走る電車の姿は、生き残った人々にとって大きな励ましになったと語り継がれています。

「75年は草木も生えぬ」

史実被爆直後、広島には「75年間は草も木も生えない」という話が広まりました。けれど翌年の夏、焼け跡のあちこちで花が咲きます。いち早く咲いた花の一つが夾竹桃(きょうちくとう)で、のちに広島市の花に選ばれました。

史実市内には、被爆しながらも生き延びた木々が今も残り、被爆樹木として登録されています。平和記念公園の被爆アオギリは、爆心地から約1.3キロの場所で被爆し、幹の片側を焼かれながら芽吹いた木を移し植えたものです。

8月9日1945年、路面電車が一部で運転を再開
1949広島平和記念都市建設法の公布(8月6日)
100m平和大通りの幅

「平和記念都市」をつくる法律

史実街の再建には、国の特別な支援が欠かせませんでした。1949年、広島平和記念都市建設法が国会で成立し、住民投票で賛成多数を得て、8月6日に公布されます。国の土地を無償で市に渡すことなどが定められ、復興は大きく前に進みました。

史実同じ1949年、爆心地に近い中島地区に平和記念公園をつくるための設計競技が行われ、建築家丹下健三らの案が1等に選ばれました。平和記念資料館の建物のあいだから、慰霊碑、そして原爆ドームが一直線に見通せる配置は、この設計によるものです。資料館は1955年に開館しました。

ここを見る:資料館から原爆ドームへの「軸線」

平和記念資料館の本館の下に立ち、北を見てください。埴輪の家をかたどった原爆死没者慰霊碑のアーチの向こう、平和の灯の先に、原爆ドームが見えます。碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。

100メートル道路と、原爆ドームの保存

史実街を東西に貫く平和大通りは、幅100メートル。もとは空襲の火事を防ぐために建物を取り壊した跡地で、戦後、大きな道路として整えられました。つくられた当時は「こんなに広い道路はいらない」という声もありましたが、今では緑豊かな、広島を代表する通りになっています。

史実原爆ドームも、はじめから保存が決まっていたわけではありません。「見るたびにつらい記憶がよみがえる」として、取り壊しを求める声もありました。流れを変えたのは、1歳で被爆し、1960年に16歳で白血病のため亡くなった少女の日記です。原爆ドームがいつまでも原爆のおそろしさを伝えてくれるだろう、という言葉が保存運動のきっかけとなり、1966年、広島市議会は原爆ドームの永久保存を決めました。

平和記念公園の慰霊碑と原爆ドーム
平和記念公園中区中島町
広島の路面電車
路面電車(広電)市内
平和大通り
平和大通り中区
被爆アオギリ
被爆アオギリ平和記念公園

復興のシンボルになった球団

焼け跡から立ち上がろうとする広島の人々を勇気づけたものの一つが、1950年に誕生した市民球団・広島カープでした。親会社を持たない球団を、市民が募金で支えた物語は、カープの部屋へ。

主な参考資料:広島市「広島平和記念都市建設法」/広島平和記念資料館/広島電鉄「被爆電車」/広島市「被爆樹木」

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